方法論の是非
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方法論は否定されるべきだと思う。
誰がどんなに絶賛しようと、とにかく方法論というのが出た段階で、それは警戒するべきモノだ。ぶっちゃけた話、アマチュアが下手に近づくと、取り込まれてしまう危険性がある。
なんらかの方法論を学んで、その視点を手に入れたとき、そこからしかモノが見れなくなってしまったら、芸術に最も大切な要素の一つである多様性や意外性が、失われてしまうからだ。
僕としては、今の自分を残しつつ、自分の幅を広げるという受け止め方を、このテキストでも、今後読むであろう演劇書などでも、してほしいと思う。取り込まれそうだなあと思ったら、まだ時期じゃないので、何もしないで、何も考えないで、ただ目の前の芝居に夢中になっていればいい。
なんにせよ、収束したらもうダメというか。トルストイは晩年、家出したという。そんな感じ。
現実でも何でも、受け入れちゃったら終わりって事だよ、コンチクショウ。みたいなエネルギー。
何か分かんなかったら、とりあえず反発しとけ。ゲイジュツはタタカイだよ。などと扇動してみたり。今日は一段と説教くさい。すまぬ。
さらに抽象的な話だけど、結局のところ、喋ったり書いたりして伝わることなら、小説や講演でかまわない。なにも目の前で演ってみせることない。わざわざ芝居でやるからには、言葉では伝わらない何か。いわゆる行間みたいなのが、なきゃダメとはいわないけど、ある方が存在意義を確認しやすいやね。芝居の。何が言いたくて今これをやってるんだ。なんてね。
などという表現がキケンなんじゃないか、という話が下記。意志を持つと、ゲイジュツではなくて、デザインになっちゃうんだよ、きっと。
役者も演出も劇場を出たらただの人で、観客と同じ世界に生きている。古典をやらないなら、台本書きだって、同じ時代を生きている。そういう自分自身のアンテナ性を信じるということ。自分は確かにこの時代に生きている、という。
んーーー。意味、分かんないな。自分自身のアンテナから発せられるシグナル(表現が古い!)カンというか、筋肉による思考というか、何も考えずに、そういうのを素直に出せばいいと思う。
何かっていうと、何を言いたいとか何がしたいとか、そういうのがはっきりしないから演ってみるんじゃないだろうか。見てもらうんじゃないだろうか。
それを観客があーだこーだいったり、批評家とかが、なんだかんだ言ったりして、意味を一緒に見つけていくような。だから、芝居の意味とか、時代性とか、メッセージ性とか、あらかじめ用意してあって、それを芝居に織り込んでおいたのを観客が探し当てるような、クイズや試験のようなモノじゃないと思う。この作品の意味は、とか、何故今これを、とか、やってる側が考えること自体がナンセンスで、こんなのやりたくなっちゃったからやるけど、ちょっと見てさ、何でこんなのやりたくなったのか考えてみようよ、という姿勢。かな。
「言葉で伝わらない何か(芝居をやる意味)」っていうのは、そもそもやっている本人にも知覚できないことで、「ある」のかどうかも分からない。「ある」は自分自身が社会との接点から出し入れしている情報とその処理を信じることでしか、確認できない。
何か分からないけど、入力して処理されて出力されていく。そこには理論とか顕在意識とかの入り込む余地は少ない。ひらめきとか芝居の神様が降りてきたとかそういう表現をされるようなこと。
いい芝居が作れるようになるにはどうすればいいのか。いい芝居はこれだ、などというパターンは存在しない。悪い芝居のパターンはいくつかの存在が確認されているけど。だから、悪い芝居を作る人にならなければいい。芝居を作れない人にならないようにすればいい。無理に、いい芝居を作る人になろうとしない方がいい。自分の「今」を信じる事が大切だ。
否定の反対は肯定で、否定と戦い、否定を否定することで自分自身を肯定する方が、ある肯定を見つけてそこを目指すような道より……………なんだろう。まあそんなようなこと。
かろうじて話のつじつまがあったので、今日はここまで。
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