演技の活用法って考えてみるとどうだろう。僕の知る限り3つある、と思う。
・ 芝居や映画などの芸術的な活用法
・ ロールプレイング(≠ゲーム)による仮想体験を得るという活用法
・ カウンセリングの手法の一つサイコドラマなどにみられる心理治療的活用法
ロールプレイングは、入試のとき面接の練習とかいって学校の先生相手に面接したりしたアレ。やってみて体験する。経験を得る。いじめ問題を扱う道徳の時間などに、いじめの場面をやったりするのもそう。立場を入れ替えたりしてね。
相手の気持ちになって考えよう。そのためには実際にその相手を演ってみるのが手っ取り早いぜ。
そういう感じ。
サイコドラマというのは、カウンセリングの一環としてたまに使われている。比較的軽度な精神障害者(境界例と呼ばれる)に対して、彼を主役として人生に影を落としている場面を演じたり、あるいは、誰か(何か)に強く引っかかっていて、そのことが問題行動を引き起こしている場合、その人(物)を演じることで、カタルシスを得たり、またはこれを受け入れていったりする。
表現することによって、自分の内面を表に出していく。演技だけじゃなくて絵を描いたりとかもね。治療者にとっては、その表現を見ることによって患者を分析することができるし、また、表現自体が治療にもなる。
サイコドラマは、詳しく書くと何枚発行しても終わらないので知りたい人は自分で本でも探して読んで下さい。創始者はJ.L.モレノ(1892-1974)、日本では増野 肇という人がいくつか本を書いている。
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ロールプレイングとサイコドラマは、演技というモノの、芝居の役者からは見えにくい側面を表していると思う。演技にそういう側面があるということは、逆をいえばそういう側面から演技を良くすることが出来るということにもなる。
いろんな体験を積んでいれば演技の幅が広がるというのは、分かりやすいと思う。「芸の肥やし」とうそぶいて女遊びを繰り返すのも、いろいろな人間を知るという意味から見れば、ただの言い訳ではない。まあ、相手を深く知ろうとする場合、男女間であればそういうことになるのはしょうがないのかもね。いろんな場所を体験することも、空間を作るのに役立つと思うし、演じる役柄について勉強して知識を蓄えることも、経験を補う手法として有効だと思う。
また、ココロを解放する手段として演技が使われているということは、演技の一つの側面として、ココロを解放していく作業であるという見方もできるということ。
心理的トラウマが演技に影を落としている場合もあるし(どうしても笑えない、みたいなのは分かりやすい例)、感情を素直に表に出せない、心に壁を作りがちな人(普段から対人関係を演じている人)は、演技での感情表現もその延長線上で捉えてしまい、どうも嘘臭くなる。普段から嘘臭い人は、舞台上でも嘘臭い。(身も蓋もない言い方だ)
ぶっちゃけた話、役者は馬鹿な方がいい。普段から、社会的な拘束を受けずに感情を素直に表現する訓練(?)が出来ているから。社会的な規範に敏感な人は、実社会を生きていくうえではとても有利なんだけど、TPOをすぐに考える癖は、舞台上ではあまり好ましくないと思う。ここはこういう場面だからこういう演技だ、みたいなことを考えて、演技を作ってしまう。それは結局、定型的な紋切り型の演技になってしまう。よっぽど上手く作らないと、おもしろくもないし、リアルでもない。
演技はアタマで創るモノじゃないと思う。アタマを使うのは演出のシゴト。(独断と偏見)
変な話だけど、普段生きているこの現実を、君はリアルだと考えているだろうか。理想と現実のギャップに苦しんでいたりしないだろうか。苦しんだあげく、理想の自分を「演技」していないだろうか。笑いたいときに笑い、泣きたいときに泣いているのか。おもしろくもないのに愛想笑いし、悲しくもないのに、つきあいで同情したりしていないか。座を盛り上げるために自分でない自分を演じ、周囲に求められて取りたくない行動を取っていないか。良い社会人は良い役者になれないし、良い役者はよい社会人にはなれない。(と思う)マネージャーを顎で使うぐらいでちょうどいい。
いいなあと思う役者は、良い意味でも悪い意味でも、人間が分かりやすい。
何か論調がやばくなったのでこのくらいにしておく。何が言いたいかというと、舞台は舞台で閉じてないということ。劇団内の人間関係が役の人間関係に持ち越されるのは、むしろ当然だし、舞台稽古は練習時間だけでは足りない。24時間舞台稽古。人生が役者修行。ラーメン食ってても、食ってる自分や彼女(いれば)を観察して、芸の肥やしにして欲しい。(無難にまとめてみた)