演技のまとめ らしい
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演技についていろいろ書いてきたけど、とりあえず演技についてはこれで最後。の予定。
今まで書いたことをまとめます。
僕が今まで聞いてきた様々なコトバのうち一番心に留めているのは「演劇は人間観察である」というコトバ。芝居というのは「観察」して「構成」して「表現」するものだと思うけど、その三つのうちどこに重点を置くのか、ということだと今は考えている。人が人に何かを伝えるとき、その原動力は何だろうか。自分が感動した体験であり、つまり「観察」だと思う。
でも別に、僕は構成こそが一番大切だという人がいてもいいし、表現が伝わった手応えが得られるのが一番キモチイイという人もいていいと思う。観察を一番に思う人が台本を書いて、構成を一番に思う人が演出をして、表現をやりたい人が役者になる、ということかもしれない。んー、ちょっと違うような気もする。まあいい。
ついでに人間の何を観察すればいいのだろうか。
僕は状況だと思う。行動は意志ではなく状況で決定されている。ある行動を取り上げたとき、考えるべきなのは、そこにどういう意志が働いたかではなく、その行動をトリガーする状況は何か、ではないか。
信じられない行動をする人がいる。しかし、同じ状況になれば自分もたぶん、その信じられない行動を取ると思う。状況を想像し、自分がその状況にいると強く思いこむ。意志はその時、自然に沸いてくると思う。怒りを表現するのではなく、怒りの場、その状況を再現する。場っていうのは電場とか磁場の場。空気が怒っているとかね。
顎を上に上げると、そう思ってなくても、傲慢な感情が沸いてくる。顎を上に上げることで、ここに傲慢な場が形成された、ということが出来る。顎を上げるというのが傲慢な状況からトリガーされる行動なら、その行動が傲慢な場を強化している。そういう強化子を見つけて、それを元に傲慢という城を自分の周囲に築く。
抽象的だなあ。もうちょっと具体的に書けないのかねぇ、まったく。
さて、よんばんめとごばんめでは、演技術というかシステムを否定することに躍起になった。
今、演劇論というのはあまり戦わされていない。勉強している人はいる。役者になるためには、やはり養成所のような所に行かなければ難しいし、そこではその養成所が売りにしている演技論を教えてもらえる。自分の演技論をまったく持たない、というわけにはいかない。何かないと、つらい。ただ、戦わせない。
劇団のシステムというか、もっと大きく社会的に集団のあり方が変わってきたからだと思う。一つの劇団が一致団結して一つの演劇論を支持する家族的な団結の仕方が否定されているのではないか。互いの演技法を支持し、戦わずに共存する、緩やかな関係を築きつつあると思う。
書いてて自分で意味が分からない。この展開はやめ。
別役実の著書に演劇論が通用するのは芝居のうちの約20%ぐらいだという文章がある。芝居のうちの広大な部分が、人知の及ばない、理論化できない、何か良く分からない要素で決まる。と彼は思っているらしい。
ひとつには、形に残らないので、研究のしようがない。現在でも、演劇に対する研究は、個々の評論家が思い思いに批評するにとどまっていて、体系だった基礎理論や分類すら出来ていない。ギリシャ時代より以前からの歴史があるのに。
もう一つには、関わる人数が多いことや、お祭り的要素があること。つまり芝居自体、カオス状態からのがれる事が出来ないという点がある。演劇より多くの人が関わる映画は、編集が入るので製作サイドの意志を明確にしやすい。(明確な故に、分かり易すぎてつまらないというのはあるけど。)映画は、役者が把握してなくても、編集で何とかなる、場合が多い。
はたして、20人が統一された意志を持つことがあるだろうか。もしあるとして、それが複雑な意志になり得るだろうか。芝居上で明示的に伝えられることは、ごく単純な事に限られる。理論化は難しいし、芝居全体に対する意味は、薄い。
そろそろ、僕の演技に関する引き出しが空っぽになって、苦しくなってきた。
次回からは、劇団というシステムについて書いてみようと思う。
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