喫茶店のある街 あとがき

マスターの死の必然


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えーー、何を隠そうこのはなしの元ネタは(やっぱりあるんかい!)夏目漱石の「こころ」です。
「僕」(わたしだったかな)と「先生」と「K」の話で、「K」が死んだことに負い目を持った「先生」は、その直後ではなく、ずーとあとに、何故か「僕」に遺書を送りつけて死にます。国語の教科書にも載ってる超有名文学なので、これ以上ストーリーは解説しませんが。
一方、脚本での話は、マスターは何も残さずに死んで、最後に僕(A)が、観客(B)に手紙を出します。このへんのちょっとした相違は、一応現代を反映して僕が意図的に変えてるんですが。

あ、ちょっと対応を書いておくと

マスター → 先生
女    → 奥さん
あの人? → K
A    → 僕
B    → 観客(読者)
C    → 傍観者

こんな感じで考えていました。まあ、これが設定のすべてですね。舞台を喫茶店にしたのは、さぼおるでご飯を食べてたときに考えてたからかなあ。イヤ、ちょっとよく思い出せないですが。

語られなかったマスターの物語を書いてみようかな。いや、全てが終わったあとで思いついて書いているだけです。やってるときはあまりマスターの物語に興味がなかったので。
あの人をK子さんにしましょうか。
たぶんK子さんは天涯孤独なんですよ。まあ、マスターもそうだけど。んで、最後の肉親が残した遺産があの喫茶店の土地。たぶん、K子さんを育ててくれたおじいさんとかの土地なんです。マスターとK子さんは結婚の約束をして、あの土地に喫茶店を建てます。店が軌道に乗ったら結婚しよう。
お店は割と繁盛して、忙しいときには二人では大変になってきた。そこで女がアルバイトで雇われる。まだ高校生の女は、若いですから無鉄砲。マスターとK子さんの関係をしっていながら、マスターにアタックします。マスターもまだ若くて、ふとしたきっかけに、K子さんを裏切って女と関係を持ってしまう。そのあとは、既成事実からズルズルと関係が発展して、ついにK子さんにバレてしまいます。
K子さんが天涯孤独でなければ、マスターをなじったり、女をなじったり、マスターを取り戻そうと戦うんだと思いますが、K子さんにはもはやマスターしか頼るヒトがいない。そのマスターに裏切られたショックは相当のものでしょう。自殺してしまいます。
その遺書にはマスターや女に対する恨み言はなく、自分はいない方がいい。二人は、自分のことは気にせずにここで暮らしてほしい。この土地はマスターに譲る。そんな事が書かれていたのです。
その時からマスターは完全に無口になりました。まあ、それまでもそんなに口数が多くはないでしょうが。
これは、自分に対する罰です。そして、自分の殻に閉じこもり、K子さんとの思いでだけで生きていくための手段です。女もすぐに辞めてしまいます。高校生にはつらい出来事です。逃げ出したとしても責められないでしょう。
そしてその女が全てを吹っ切ってまたこの喫茶店に戻ってくるところから、この物語は始まるのです。

さて、Cはやっぱり悲しい役ですね。
演出的には意味があるんですが、話としての必然はあまりないです。(ああ、言い切ってしまった)CのストーリーはCだけで完結してしまうからなあ。でも演出としてはなくてはならない存在でしたから。じゃないと、あまりに話が暗すぎる……いや、それだけじゃないですが。


何も知らない「奥さん」から、訳知り顔の「女」になったのは、昔に比べて女性の立場が向上していることを反映しています。現代の女性なら、このくらいストーリーに食い込むパワーを持っているはずです。知らないところでそんな話が起こってて見逃せるはずがないし、また、守ってあげる必要もないと思います。
一応「こころ」では、奥さんを守るために先生は死を選べなかったとなっていますが、「そんなん言い訳じゃ!」と思うので、このファクターは消滅してもOKでしょう。(違うなら、何故奥さん存命中に先生は死ぬのだ?)ただし、言い訳がなくなった分、死への必然(生への必然も)なくなってしまいました。
もし、「奥さん(お嬢さん)を守りたい」が言い訳だったというのなら、先生の死の必然は何なんでしょう。

すごく俗物的ですが、僕は結局「タイミングが悪かった」のだと思います。

何だそれは?
マスターが「死ぬべきだった」と思うようなことが過去にあったんですよね。でもその時たまたま「宝くじが当たった」とか。死ねますか?
まあ、それじゃああんまりにも美しくないんであれですけど。そういう偶然って当然あると思うんですよね。ある方が当たり前かもしれない。
「K」が死んだとき「先生」は「お嬢さん」と結婚を控えてました。その時に死ねますか?タイミングが悪くて死ねなかったんだ、Kには申し訳ないと思っているなんてちょっと美しくないですからねぇ。

本来悲しくなるべきときに悲しくなれない。絶望するべきときに絶望できない。
絶望しない自分に絶望する、イヤ、軽蔑する。

ここでこんな事を書くのも何ですけど、祖母が死んだとき僕ゲームしてたんですよね。んで電話が鳴って、死んだから帰ってこいって言われて、うんって言って、そのあとまたゲームの続きをやって、(もうその日に香川までたどり着ける新幹線はなかったしお金も手元になかったので)クリアして、実は嬉しかったんですよね。クリアしたことが。
何やってんだか。
僕んちは共稼ぎなので、僕はじじばばっ子なわけですよ。1年以上経ってるんですが、今思っても結構悲しいわけですよ、祖母の死は。なんかそういう間の悪さっていうのかなあ。そういうのは考えてましたね。
申し訳ないっていうか、そういう感覚も含めて。

なんで終わってから書いてるかっていうと、美しい芝居にしたかったので、そんなベタな、俗物的な理由でいいのかとか考えてたら、結局誰にも言えなかったんで、しょうがないから今ここに書いてるんですが。ん。それも後付け的言い訳かな。いやあ、やっぱりイメージってあるでしょう、この芝居への。役者には耽美に徹して欲しかったですからね。一方で演出はこんなコトを考えて、一人ニヤニヤしてるわけです。イヤなヤツゥ!!

ふう、書くこと書いたらすっきりしましたね。

だから「マスター」は「先生」のように手紙を書いたりして自己陶酔しないし、AはAで分かったようなフリだけして、結局Bはふりまわされっぱなしだけど、まあそれも友情だよ。あ、ひでえ話だ。

いや、分かったようなフリだけというか、Aはきっと「忙しくなってしまった」んだと思うんです。余裕がなくなったというか。新しい東京での自分に夢中なんですよ。過去って現在から見ればそういうモノでしょう。
「過去になっちゃったんだよ」は、及川さんだけでなく、あの時点ですでにマスターも、過去になっちゃってたんですよね。いや、Bやその他すべてを含むあの街自体が……かな。それはもう、現在も存在してようと、してまいと、過去のモノ(物質的存在)としてしか認識できないんです。現在はないモノとして扱ってしまうんです。例え目の前にあっても、過去として見てしまう。


僕は脚本を書くとき、そういう当たり前へのコダワリというのを常々思っていて、つまり当たり前のように不自然なことも起こりうるというのも含めて、当たり前の事が目の前に展開されるべきだと思います。もちろん、美しさとか、構成の妙とか、おもしろさも求めますが、それを過剰に追求するあまり、当たり前のことが当たり前に表現できなくなっては本末転倒だと思うわけですよね。


そういう意味で、「先生の死」という不自然な当たり前を、漱石は長文の手紙による衝撃的なうち明け話で隠してしまうわけですが、それはあの時代の手法であり、現代に生きる台本書きとしては、踏襲するわけにはいかない。むしろ露わにした上で、観客がぎりぎり食べられるところまでしか手を加えない。そして、無理矢理食わせる(鬼畜だ……)オブラートに包んで、分からないように食べさせるなんてそんななまやさしいことを、現代文学はやらんのですよ。少なくとも、この俺はやらん!(意味がわからんっちゅうに)
まあ、それが可食物であったかどうかの是非はおいといて、一応そういう方針を意識しつつ書いてみたのでした。
でもねえ、実際は後悔したり、迷いつつの製作でしたよ。書いてるときも演出してるときも。まさに、三歩進んで二歩下がる状態。これでいいんじゃあ、俺って天才!(三歩進む)こんなん観客に受け入れられるわけないだろう、俺って馬鹿ぁ?(二歩下がる)
そんなかんじ。

なんでこんな事に挑戦してみたくなったんだろう。
きっとここに山があるような気がしたんだろうね。

今回関係者の方々には、意味不明の演出に付き合っていただきありがとうございました。この文章で少しは意味も分かったでしょうか。観客はきっと意味がわからんまんまだろうな。まっいいか。


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