Gallery of TOKAI TEIO(番外編PART2)
 
 

騎手・安田隆行と駆け抜けた日々

 トウカイテイオーの主戦騎手は、5歳での復活以降こそ岡部や田原が務めている。 
 が、しかし、日本ダービー迄の無敗ロードを共に駆けてきたのは、安田隆行騎手(現・調教師)だったということを忘れてはならない。                
 今回は、安田騎手とテイオーとの間にあったエピソードやテイオー降板劇の真相等について振り返ってみたいと思います。 
 
 
 

プロローグ 〜テイオーとの出会い〜

 安田隆行は、昭和47年にデビューして以来、長らく日の当たらない道を歩いてきた騎手だった。クラシックなどの大レースには全く縁がなく、活躍の場は主にローカル開催だったため、印象も地味な騎手だった。
 そんな安田騎手だが、彼は過去に2度の落馬事故で重傷を追ってしまい、そのときの後遺症ともいうべき爆弾を抱えた足がいつ爆発するかわからないという危険と常に背中合わせの状態で騎手を続けていたという。

 安田騎手がテイオーの背に初めてまたがったのは、テイオーの評判がまだ挙がるか挙がらないかという頃だったという。どの厩舎にも属していないフリーの騎手だった安田は、乗り馬を確保するために、いろいろな厩舎の馬の調教を自ら申し出ることが多かった。テイオーと安田騎手の出会いも、そんな”営業”の一環のなかでのことだった。
 
 彼は、初めてテイオーの背にまたがったときの感想をこう語っている。 

 そして、調教も順調にすすみ、テイオーのデビューは目前に迫っていた。そんな11月のある日のことだった。
 松元調教師から、安田騎手にこんな打診があったという。  安田がハンデを背負ってしまった、かつての調教中の事故、実はそのとき乗っていたのは松元の所属馬だったのである。もちろん不慮の事故ではあったが、そのときのこともあって松元氏は安田をテイオーに乗せてやりたいと考えたのではないか・・・。 安田騎手はためらうことなく、こう答えたという。  

 

テイオー・デビュー

 迎えた平成2年12月1日、中京競馬場で、トウカイテイオーはデビュー戦を迎えた。
 終わってみれば、評判通りの強さでデビュー戦を圧勝したが、安田騎手は苦しいレースだったという。
 発走直後に両サイドの馬に前をふさがれ、行き脚を失ってしまい、馬群の真っ直中でレースを進める羽目になってしまったからである。しかも前日の雨での道悪に脚はとられてのめりっぱなし。
 しかし、4コーナーを廻って直線に差し掛かったところで、ようやく馬群がばらけ、エンジンがかかってきたのである。最後は4馬身差をつけてのゴールだった。

 安田騎手は、これほど苦しい展開を強いられたにもかかわらず、最後は圧勝してしまったテイオーの底知れない力に驚愕した。同時に、最初にまたがったときに感じた、デビュー20年目にして初めて巡ってきたクラシック制覇の予感が、現実味を帯びてきたような気がしたという。
 

無敗の快進撃 〜第1冠・皐月賞制覇〜

 騎手生活20年目にしてはじめてクラシックを手に入れた安田騎手は、一躍”時の人”となっていた。
 おびただしい取材陣がやってきて質問をすると、最後には必ず「運がよかったんですよ」と答えていたという。
 これは安田騎手の謙遜でもなんでもなく、本当に思っていたことらしい。というのも、安田騎手がテイオーと出会ったとき、彼は既に調教師を目指していたのだ。ところが試験に落ちてしまったので、皐月賞ではテイオーに乗ることができたのである。
 結果的には、試験の合否が、G1ジョッキー誕生の鍵を握っていたのだから、「巡り合わせとは奇妙なものだ」と安田騎手はつくづく思ったそうだ。
 

栄光の瞬間からの絶望 〜無敗のダービー馬誕生〜

  ダービーでのテイオー強さはまさに文句なしの内容だった。
関係者の誰もが3冠への希望に胸をときめかせていた矢先の事だった。一瞬にして希望は絶望になってしまったのだ。
 ダービーから3日後の5月29日、テイオーに左第中足根骨骨折の診断がくだされたのである。
 おそらくレース中の事故だろうということだった。全治6ヶ月、菊花賞は完全にあきらめるしかなかった。
 
 そんななか、さらに追い打ちをかけるようなニュースが安田騎手を襲った。
 その内容は、ダービーでの安田の騎乗法に対するものだったのである。  新聞記事にはこんな内容が書かれていた。しかもそれを指摘したのは、あの名手・岡部騎手だったのである。  つまり、東京は左回りのコースなので、コーナーをまわるときは左脚が軸になる。このときに右鞭を打っているということは、軸である左脚にさらに負担がかかる、ということらしい。
 安田は右利きなので、自然に右鞭を使っていたはず。しかも骨折したのは左脚である。

 実際のところ、骨折の原因が、鞭の使い方にあったかどうかは不明である。しかし、岡部騎手が公言しているのだから、その影響力は大きかったはずである。

 だが、安田騎手は、岡部騎手や新聞記事に対して恨み言など一切口にしなかったらしい。
むしろ、「もし岡部さんの言ったことが本当なら、テイオーには済まないことをした。原因はわからないが、もし次という機会があるのなら、今度は誰にも文句を言わせないような騎乗をしてみせる」と心底思っていたという。
 実際に、このことは建前でもなんでもなく、安田騎手は、復帰後のテイオーのことを他ならぬ岡部騎手に委ねたいとすら考えていたそうである。
 

惜 別 〜テイオーとの別れ〜

 安田騎手はテイオーを降りることにした。それは責任をとったということではなく、骨折が判明していた時点で乗り替わりを決めていたという。
 それは、安田が今後の自分の人生を騎手としてではなく調教師でありたいと考えていたからである。
 実際、安田騎手は、前年の調教師試験を受験して落ちており、結果としては、調教師の免許が取得できなかったがためにG1ジョッキーの仲間入りを果たすことができたわけだが、次の試験も受験することは既に決意していたのである。
 もし合格すれば、翌年の3月1日付けで騎手免許を返上しなければならない。がしかし、テイオーの復帰後の目標は自然に考えても天皇賞(春)ということになるだろうから、ステップレースを1回使うにしても、早くて復帰は3月という答えがおのずと出てきてしまう。
 もちろん、また調教師試験に落ちれば、騎手を続けるのだから、乗れるじゃないかという考え方もある。現に安田騎手は試験に落ちて現役を続行していたのだから。
 だが安田騎手は、そうは考えていなかった。
 なぜなら、今までとは状況が全く違うと思っていたからだ。G1ホースになる前のテイオーなら、いくら期待馬とはいえ、所詮は先の見えない3歳馬でしかなかった。でも、今のテイオーは史上最強の歌声があがる程の名馬なのである。そんな馬に乗せてもらえるだけでもありがたいというのに、”試験に落ちたらまた乗ります。受かったら乗れません”などと言えるはずがないし、オーナーや調教師にしても、乗り役があやふやなままでは申し訳が立たない。
 安田騎手はそこまで考えていたからこそ、自ら降板を申し出ていたのだ。それは、自身の騎手生活の中で最高の夢を見せてくれたテイオーのことだったからこその結論だったという。

  

エピローグ

 おそらく、大方の人達が、岡部騎手への乗り替わりを聞いて、“安田騎手は、ダービーの時の骨折が原因で、乗り役を降ろされたのだろう”、そう考えたのではないでしょうか。
 現に私自身も当時はそう思っていたのですから・・・。
 あの頃の私は、まだ競馬を初めて間もないときだったので、はっきり言って、安田騎手のことはほとんど知りませんでした。ただ、岡部騎手はリーディングを争うトップクラスのジョッキーだということは知っていたので、乗り替わりを聞いたときは手放しに喜んだものです。周りの友人達と、ゴール前で追わなくてもいいものを追ったもんだから、テイオーは骨折して3冠馬になれなかった…などと安田批判さえしていたような気がします。
 でも、こうして安田騎手のテイオーに対する気持ちを改めて知り、また安田騎手という一人のジョッキーの人間性に触れ、今は、安田騎手がいたからこそテイオーはここまで大成することができたのではないかとさえ感じています。
 是非、安田騎手、もとい安田調教師には、テイオーの子でクラシック戦線をおおいに湧かせて欲しいものです。
 
 
  
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