Gallery of TOKAI TEIO(番外編)

 

帝王誕生の軌跡を探る 

 テイオーのオーナーである内村正則氏は、引退式の後、テイオーについてこう語っています。                    
 「トウカイテイオーは情が生んだ馬でした。生産者、育成者、調教師、調教助手、厩務員と、様々な人々の温もりによって育てられたんです。誰が欠けても彼の素晴らしいドラマは生まれなかったはず。出生の経緯から競馬場に至るまでの彼の軌跡を辿れば、それが間違いないことを確信が持てます。微力ながら私もお手伝いさせていただきました。」                    

 トウカイテイオーは、今から約30年前、オーナー・内村氏と一頭の牝馬との出会いに始まり、運命のいたずらによって世に送り出された馬。そしてまた今日のテイオーがあるのも、全ては運命の巡り合わせによるもの・・・、内村氏はそう考えているのです。                   
 ここでは、番外編として、テイオー誕生のルーツを探るとともに、デビューまでの軌跡を辿っていきたいと思います。

 
 

プロローグ 〜全ては、一頭の馬の衝動買いから始まった〜

 大阪で「東海パッキン」という会社を営み、その社名から「トウカイ」の冠名で馬を走らせている内村氏は、当時を振り返りながらこう言う。

 「あれは昭和40年代の初頭のことだったと思う。私の幸運はあのときから始まった・・・」

 そう、それは当時、内村氏が北海道の幌泉町にある田中牧場を訪れたときのことだった。
 放牧地では、若駒が元気に走り回り、その姿はとても心地よさそうに見えた。 だが、馬房へ行ってみると、1頭だけ放牧に出されず、たたずんでいる馬がいた。
 内村氏が場長に尋ねると、「けがをして脚がはれているため、おとなしくさせている」、そんな答えが返ってきた。このとき内村氏は、こんなふうにけがをしている馬を買う人がいるのだろうか・・・と何となく気になったらしい。

 その馬は今度のセリ市に出す予定だったが、故障のおかげで取りやめになったという。仲間と一緒に走り回ることのできないサラブレッドに対し内村氏は同情心を抱き、ふと気が付くと「私が買いましょう。」と、とっさに申し出ていたのだ。

 内村氏はこのとき、「売れずに廃用にでもなってしまったら、この馬は何のために生まれてきたのだろう。私が買うことによって、この馬の未来が救われるのならそれでいいではないか。いままでそうして生きてきたのだから、これも運命かもしれない。」・・・そう考えていたという。

 こんな思いから内村氏が衝動買いした牝馬は、後にトウカイクインと名付けられ、3歳から7歳まで5年間で56戦5勝の成績を挙げ、繁殖牝馬になった。結果から見れば、馬主孝行な馬であり、そんな巡り合わせに内村は幸運を感じずにはいられなかったらしい。

 しかし、幸運はここで終わらなかった。
 引退して繁殖牝馬になったトウカイクインは9頭の子を産んだ。どの産駒も競走成績は至って平凡なものであったが、クインの子には牝馬が4頭いたので、血を残すという役割はきっちりと果たしていた。そして、クインの仔のなかで、トウカイミドリが母となって大輪の花を咲かせたのである。

 トウカイミドリは引退して繁殖に上がった後、名種牡馬ブレイヴェストローマンとの間に初子をもうけた。そう、その子こそ、後にオークス馬となるトウカイローマンである。
トウカイローマンが4歳牝馬の頂点であるオークスを制したとき、「あのときの衝動買いがこんな大きな実を結ぶなんて・・・」内村氏にとってまさにその日は最良の日となった。
 
 

夢のような配合

 トウカイローマンが勝ったオークスから一週間後の5月27日、最大のレース・日本ダービーでは、稀代の名馬・シンボリルドルフによる圧勝劇が演じられた。そう、この馬こそ、7つのG1タイトルをさらった「史上最強馬」である。
 内村氏は、このシンボリルドルフのとてつもない強さに、畏敬の念すら抱いたという。類い希な競走能力、スパルタ教育で鍛え上げられた馬体、どんなレースでも先頭で駆け抜けようとする精神力、全てにおいて一介のサラブレッドとは次元が違っているように思えたとも言う。
 ルドルフをローマンの花婿に迎えよう。同期のダービー馬とオークス馬の交配・・・内村氏は、この夢のような配合をこのときに既に決心していたのだ。

 

 

運命のいたずら

 昭和62年、トウカイローマンは既に7歳。堅実に走ってはいたが、勝ったのはわずかに1度だけだった。
 内村氏もローマンを預かっている中村均調教師も、「年齢的にもう限界かもしれない」と思い始めていた。今ならまだ繁殖シーズンに間に合うので、次の新潟大賞典で引退させ繁殖にあげよう、という話が関係者の間で決まりかけていた。 
 ところが、ここで、運命は関係者を悩ますいたずらをしかけてきたのである。このレースで、トウカイローマンが2着になったのだ。仮に、万一優勝でもしていれば繁殖の手土産として、そのまま繁殖にあげることもできただろうし、逆に惨敗していたとしても踏ん切りがついたからだ。2着になったばかりに、まだやれるのでは・・・という期待感が募ってしまったのだ。
 
 

運命のいたずらがもたらした仔

 結局、トウカイローマンは現役続行が決まったわけだが、引退を延ばしたことによって、トウカイローマン用に用意していたシンボリルドルフの種付け権利が、宙に浮いてしまったのだ。
 そこで、内村氏が考えたのが、1つ妹のナチュラルとの交配だった。

 「ナチュラルは未出走だったが、内村氏の持ち馬は、どういうわけか、現役時代に活躍した牝馬より、それほど走らなかった馬の方がいい仔を産んでいるので、もしかしたらナチュラルの方が母としては有望かもしれない。」 

 内村氏は、そんな風に考えていたらしい。
 そしてそんな中、現役を続行していたトウカイローマンが、1年4ヶ月ぶりにG2の京都大賞典を勝ったのだ。この吉報を聞いて、内村氏はさらなる期待を抱いたという。

 「現役を続行した甲斐があった。あのときの決断はやはり間違っていなかったのだ。きっとナチュラルの仔のいい結果を出してくれるのではないだろうか。」
 

 昭和63年4月20日、トウカイナチュラルは無事出産を終え、鹿毛の牡馬を産んだ。この馬こそ、後のトウカイテイオーである。
 「皇帝」の仔だから「帝王」、内村氏にとっては、ごく自然に浮かんだ名前だという。
 ほんのささいな”運命のいたずら”がもたらした仔、この時点で、このサラブレッドが競馬史に名を残す名馬になろうとは、誰も予想し得なかったことだっただろう。
 

帝王・幼少の日々

 幼少の頃のテイオ−は必ずしも評価の高いサラブレッドとはいえなかった。ひょろひょろした感じの馬で、あまり見栄えがよかったとはいえなかったからである。しかも、いくらシンボロルドルフをつけたからと言って、所詮は代用品、誰も特別な馬とは考えていなかったのである。
 さらに言えば、生産者である長浜牧場は、今でこそテイオーの故郷として有名だが、当時は一度も重賞を出した馬がなく、家族だけで運営している弱小牧場だったため、評価が高くなろうはずがなかったのである。
 ただ、テイオーが素質の片鱗を見せたとして語られる「2歳時に牧場の柵を乗り越えた」という有名なエピソードがあるように、体の柔軟さと跳躍力は群を抜いていたそうだ。
 長浜牧場の牧柵は1メートル30センチほどの高さがあり、柵を飛び越えた馬は何頭かいたが、皆、飛び越えて着地するときにこけたり、脚を引っかけて落ちてしまい、テイオーのように柵の外を悠然と歩いていたことはなかったという。
 こんなやんちゃなテイオーだけに、性格の方は生まれたときからきかんぼうだった。だからこそ、2歳時に育成所へ移すとき、場長の長浜氏は、「小さいときからうるさい馬でしたから、それに腹を立てて八つ当たりするような人にはまかせないで欲しい」と頼んだという。 
 
 

高まる期待・・・いざ東へ!

 長浜牧場のような小さな牧場では、生産から育成まで一貫して行うだけの施設が整っていないため、通常2歳の秋頃になると育成牧場へ育成されることになる。
 トウカイテイオーもその1頭であり、平取の二風谷軽種馬共同育成センターで送られることになった。
 二風谷軽種馬共同育成センターの場長、岡元幸広氏は、テイオーが初めてやってきた時のことを、このように語っている。

 「ずいぶんスマートな馬だな」という感じで、「これは走る」という直感はなかった。ただ、テイオーの繋(つなぎ)の部分が普通の馬とは全く違っていて、テイオーが歩くと、球節が地についてしまうのではないかと思えるくらい繋が柔らかかったことは非常に印象深かったと同時に、どういう馬なのかという疑問も抱いた。
 
 だから、はじめてまたがるときには、すぐに壊れてしまうのではないかと、おっかなびっくりだったが、いざまたがってみると非常に乗り心地が良い。まるで足回りが良くてクッションのきいた車にでも乗っているような安定感のある走り、それに加えて、フットワークは、”全身これバネ”といった感じだったという。

 あの柔らかい繋は強靱なバネの源だったのだ。調教が積まれるにしたがい、抜群の動きを見せるテイオーを見て、岡元氏は日増しに手応えを感じ取っていた。
 北海道にやってきた内村氏が「東(皐月賞・ダービーの事)へいけますか」と尋ねると、岡元氏は「もちろんです。」と自信を持って答えたという。
 
 

 運命の巡り合わせ(入厩) 

 内村氏は、テイオーが松元厩舎に入ったのもまた運命だと考えている。
 昔、内村氏は松元厩舎へ2頭の持ち馬を預けることになっていたが、馬房の関係で1頭しか入れられなくなってしまったときのことである。
 もう1頭を別の厩舎へ預けるため、中村均調教師と相談したところ、どの馬をどちらに預けるかで協議することになった。だが、松元氏は「2頭のうちいい方をやってください」と自ら申し出たのである。
 そのとき、中村氏の方へ預けられた馬がオークス馬・トウカイローマンだった。そして松元氏が預かった残りものの方が、トウカイマリーだったのである。
 厩舎の慣習から言えば、同じオーナーの兄弟馬は同じ厩舎に入るのが一般的であり、その観点で言えば、ローマンの妹であるナチュラルは、本来中村厩舎に入るのが筋だった。ところが、中村氏は、”脚が弱そうなので”という理由で断りを入れてきたのである。結果から言えば、中村氏の見立て通りナチュラルは未出走に終わっているが、そんなことから、ナチュラルは松元氏が預かることになったのである。だからナチュラルの仔であるテイオーも慣例に習って松元厩舎に入ったのである。
 走りそうだった姉を譲り、走らなそうだった妹を引き受けてくれた松元氏だったからこそ、きっと恩返しがあるはずだ、と内村氏はテイオーを預けたときそう考えていたという。
 
 ただ、松元氏にしても身体の線が細かったテイオーの第一印象はそんなに高いものでなかったという。
身体全体のバランスは良かったが、筋肉の付き方とかが物足りなかったような気がするし、気性面でも難しいところがあると感じていたからだ。
 それでも期待せずにはいられない理由もあった。それはテイオーがシンボリルドルフの仔だったからだ。
 そして、その期待は、入厩の翌日、すぐに現実のものとなった。

 「とにかくのってみろよ。こんな柔らかい馬はちょっといないよ。」

 調教助手の北口浩幸は、そういって他の調教助手にもテイオーにまたがることを勧め、実際に乗ってみた助手達もその乗り味に驚き、あっという間にテイオーは栗東の評判馬に変身していったからだ。
 
 

エピローグ

 もし30年前、内村氏が怪我をした1頭の牝馬に目を向かなかったら・・・、もしあのとき予定通り姉のローマンとルドルフが交配していたら・・・、もし松元調教師があの選択でトウカイローマンを選んでいたら・・・、そんな事がいくつも連想される程たくさんの巡り合わせが重なって産まれてきたのがトウカイテイオーなのである。
 内村氏の「情が生んだ馬」「運命の巡り合わせ」という言葉の裏側に隠されたテイオーの生い立ち、それは間違いなく、テイオーという馬は決して偶然の産物だったのではなく、たくさんの関係者の方々から注がれた溢れんばかりの愛情によって産まれてきたサラブレッドなのだということが手に取るようにわかる。

 オーナーの内村氏、生産者の長浜氏、調教師の松元氏、その他関係者の方々に敬意を表して、「トウカイテイオー外伝 〜帝王誕生の軌跡〜」をここで締めくくりたいと思います。
 
 
 
 
 
 
 

fin

 

参考文献:水晶の脚・トウカイテイオー(三心堂出版社)