A.エジプト
旧新約聖書とエジプト
カイロ …ヨセフ、マリア、イエス一家の疎開場所?
また、この地区の中心にあるコプト教の教会の一つ、聖サルジウス教会は、
St.SARGIUS
CHURCH The oldest church in Egypt. Where the Holy Family
lived for some time during their stay in Egypt.
シナイ …古代イスラエルの民放浪の荒野
「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。」 申命記8章2節
「…主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎と蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、あなたを試み、ついには幸福にするためであった。…」 申命記8章14-16節
シナイの荒野
エジプトを出たイスラエルの民がシナイの荒野をさ迷っていた期間は40年間でした。どこをどう辿って移動したのかはわかっていません。民数記33章に経路を示す地名が書かれていますが、現在の地名と一致させることは難しいのです。
出エジプトのルートにはたくさんの説があります。妥当と考えられるのは3つ位で、その中で伝統的に出エジプトのルートだとされているのは、下図の青色のルートです。現在のサンタカテリーナまで南下し、そこから北西へ向かうルートです。しかし、近年の研究によれば実際にはもっと北寄りのコースを辿ったことが明らかになっています。(下図赤色の線に近似したルート)
出エジプトの伝説と推定によるルート
シナイ半島のほとんどの地域は荒野です。緑の多い日本から行くと、荒野の大きさに圧倒されてしまいます。是非一度荒野を体験してみて下さい。
どこまで行っても見渡す限りの荒野です。自然の厳しさ、恐ろしさ、そこをさ迷い続けたイスラエルの民、そしてそこにたえず目を注いでいた神様を間近に感じることができます。
団体ツアーで行くと、冷房の効いたデラックスバスで通過するだけですが、現地で荒野を体験するツアーに参加したり、ガイドを雇って普通の車で荒野に入ると、たいへん多くのものを見ることができます。できれば一泊、荒野の中で野宿してみて下さい。夜になると空が球形だということがはっきりわかります。星に囲まれて、自分がどこか別の天体に立っているような気分になります。
![]() カイロからはバスで約2時間でスエズ通過、その後約6時間で現在シナイ山と呼ばれている山のあるサンタカテリーナに着きます。カイロからは700キロ近い道のりがあります。
スエズから10キロ程の所には砂漠の中のなつめやしの林があります。そこが出エジプト記15章23節の苦くて飲めなかった水の場所マラだと言われています。これも数千年前のその場所というわけではなく、言い伝えです。
サンタカテリーナに近づくと、St.Katherineの表示の他に Katherine Turizm villageという表示があります。St.Katherineは修道院の方向、Katherine Turizm villageが多くの旅行者にとってのサンタカテリーナの町です。サンタカテリーナはシナイ山観光で最近はかなり賑わうようになりました。新しいホテルが次々とできているようです。サンタカテリーナ修道院でも宿泊できます。 シナイ山 …十戒 「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭くなり響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。…」出エジプト記19章18節〜
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出エジプトのルートにいろいろな説があるのと同時に、シナイ山がどの山なのかについてもいろいろな説があります。伝承によれば、現在のサンタカテリーナのにある「ジェベル・ムーサ(=モーセの山)」とアラビア語で呼ばれる赤い岩ばかりの山(2285m)です。モーセが十戒を授かった山は、実際のところは現在「シナイ山」と呼ばれている山からずっと北東にあるはずなのですが、どの峰が聖書に書かれているシナイ山であるかは特定することができていません。
エジプトを出て約3ヶ月後、イスラエルの民はシナイ山のふもとまで来ます。ここでイスラエルの民と神との契約がはっきりと結ばれます。モーセに十戒の石板が与えられていよいよ約束の地へ向かって進むかと思われるのですが、何と、ここでイスラエルの民は最大の罪を犯してしまいます。金で子牛の像を作り、これをを拝んだのでした。(出エジプト記19,20章、32章) そしてこの後も何度も何度もイスラエルの民は神様に背き、合計40年の歳月を荒野で過ごすことになります。
「シナイ山」の頂から見る景色はたいへん素晴らしいものです。特に日の出前は言葉にできないほどの美しさです。ただし、残念ながらここ数年はかなり観光地化されてきてしまいました。いつ行っても人でごった返していると思います。10年前に登った時は比較的静かな山でしたが、7年前の2回目の時はすでに観光客があふれ、観光客相手のラクダ引きや土産物売りがいっぱいいてうるさくて仕方が無い感じがしました。
普通は、山頂で日の出を見るために、真っ暗な夜中の2時前から山に登りはじめます。(季節によっては1時前に出ないと日の出に間に合いません)たくさんの旅行者が懐中電灯をつけてアリの行列のように進んで行きますので、道に迷う心配はありません。行列に混じってゆっくり歩いてふもとから頂上まで約3時間です。観光客用のなだらかな道が整備されていますので、登山の経験が無くても登れます。
汗をかくので、できるだけ薄着で登ることが望ましく、同時に頂上に着くと砂漠の夜特有の寒風にさらされてたいへん寒くなりますので、ヤッケなどの防寒具が必需品です。靴は普通の運動靴で十分です。水ももちろん持って行きます。
シナイ山の頂上から北に数百メートル下った所に「エリヤの泉」と呼ばれている井戸があります。小さな広場の真ん中で周囲には少し木が生えています。乾燥した巨大な岩の固まりのようなシナイ山ですが、水もあるのです。7年前(1989年)はこの井戸で水を飲むことができました。味も悪くなく、下痢もしませんでした。この「エリアの泉」は列王記のエリアが神の山ホレブに逃れてきて一夜を過ごした場所だと言われています。これももちろん伝承によるもので、実際のその場所である可能性はあまりありません。
列王記・上 19章8節 「エリアは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。エリアはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。…」
海 聖書とは関係ありませんが…
シナイ半島の東海岸、アカバ湾(イスラエルではエイラート湾と呼ぶ)のヌエバ、ダハブ周辺の海岸は、海水がたいへんきれいで、世界一のマリンスポーツの場所となっています。年中海水は暖かいので泳げます。かつて初めてシナイへ行った時、荒野の真ん中で出会ったドイツ人が「自分はスウィマーだ、泳ぎに来たんだ」と言って自己紹介したので、私は「こんな砂漠の真ん中で何を言っているんだ」と彼の言葉を冗談と思ったのでしたが、シナイ半島に来る多くの旅行者の目的は「海」であることを後になって知りました。
海水は澄み切っていて、実際に水中眼鏡をつけて沖へ向かって泳いでみると、何十メートルもの海底まで珊瑚礁が見え、泳ぎ回る魚の群れが光りかがやいていました。シナイの荒野とは別世界のすばらしい大自然の姿です。シナイに行ったら是非アカバ湾で泳いで海中を覗いてみて下さい。
その他
エジプトはピラミッドなどは特に有名で観光客の多い所です。しかし残念ながら中東では唯一と言っていいのですが、旅行者にとっては旅行しにくい国です。旅行者を狙ったスリ、詐欺が多発、警官の賄賂の要求、イスラム原理主義過激派のテロ犯罪というような好ましくない事態が発生しています。
一人でも気楽に簡単かつ安全に行くには、エジプト「本土」には行かず、イスラエルから聖書に関係の深いシナイの荒野だけを回って再びイスラエルに戻るコースを取るのがいいと思います。シナイだけのビザはイスラエルとの国境で簡単に取れます。(写真不要。手数料とパスポートのみ必要)
また、国境近くのエイラートの他、テルアビブ、エルサレムのイスラエル国内の旅行代理店でいろいろなスタイルのシナイ半島ツアーをたくさん扱っているので利用すると便利です。荒野の中をジープで移動し野宿するツアーもあり、古代イスラエル
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B.ヨルダン
旧新約聖書とヨルダン・・・関係の深い場所が散在
「エツヨン・ゲベルを出発して、ツィンの荒れ野、すなわちカデシュに宿営した。彼らはカデシュを出発して、エドムの国の端にあるホル山に宿営した。」民数記33章36,37節
エジプトを出、シナイ半島の東の海岸に出たイスラエルの民は、現在のエジプト=イスラエル国境のタバの南にある海岸のエツィオン・ゲベルに宿営し、その後北北西に向かって内陸に進み、カデシュに着きます。
もはや約束の地は目前です。そこでモーセは約束の地へ斥侯部隊を派遣しました。斥侯部隊は現在のヘブロンの近くエシュコルの谷まで行き、ぶどうの房を採ってきます。そしてイスラエルの民は「まことにあの地には乳と蜜が流れています」という素晴らしい報告を受けました。
しかし、イスラエルの民は再び大罪を犯してしまいます。神様の約束を信じないで約束の地への進攻をためらいます。そのため、再び荒野でさらに37年間の放浪生活をすることになります。
その37年の荒野の放浪の後、再びカデシュに宿営します。そこから先のルートもまたはっきりはしていません。民数記33章には省略されていますが、21章などの記事から判断すると、カデシュからまっすぐ約束の地に向かったのではなく、一旦アカバ湾(エイラート湾)に戻り、今度はかなり東寄りのルートをとってそこから北上した可能性が高いと考えられます。そのルートがアカバから北の現在のヨルダンに含まれるのです。
上の図にはホル山が1ヵ所だけになっていますが、シナイとイスラエルの境にあるカデシュの近くだったという説もあります。
民数記33章28節には、ホル山に到達したのはエジプトを出て四十年目の第五番目の月の第一日であったと記されています。アカバからホル山までは、シナイ半島とは荒野の様子が少し違いますが、やはり厳しい荒野です。
ヨルダン南部の南北を結ぶ幹線道路は2つあって、一つが西の山よりのキングス・ハイウェイ(王の道)、一つが東の平坦な砂漠を貫くデザート・ハイウェイ(砂漠の道)です。デザート・ハイウェイは道が良く長距離バスなどが走っていて交通の便はいいのですが、キングス・ハイウェイは道も悪く、不定期のミニバスの運行しかないので移動がかなりたいへんです。
イスラエルの民の通った経路は、民数記20章20節の記事から考えると、キングス・ハイウェイをやや外れて西へ寄った山間地のすそと思われます。このあたりの地形はたいへん起伏が激しく、山や谷に隠れながら進んで行くのに適しています。
キングス・ハイウェイ沿線と西の山地は現在でも人のほとんど住まない険しい地形で、しかも日本のような木の生えている山とは違い、厳しい自然環境です。所々に集落が点在し、ミニバスがそれらの集落を結んで走っています。
ヨルダンを走るこのミニバスは、日本では温泉旅館などが送迎に使っているマイクロバスで、日本製がほとんどです。
このミニバスは出発地と到着地は決まっていますが、途中の停留所は正確に決まっておらず、乗降客次第です。また、時間通りに走っているわけでもなく、人が集まり次第出発というのが多いようです。ですから、キングス・ハイウェイを巡り歩く時には、いつミニバスが来て拾ってくれるかわからないので、心細い思いをします。ミニバスの運賃はかなり安く、1時間位乗る距離でも30円から50円でした。 ホル山 …アロンの死 「『アロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登り、アロンの衣を脱がせ、その子エルアザルに着せなさい。アロンはそこで死に、先祖の列に加えられる。』モーセは主が命じたとおりにした。彼らは共同体全体の見守る中をホル山に登った。モーセはアロンの衣を脱がせ、その子エルアザルに着せた。アロンはその山の上で死んだ。」民数記20章25,26,27節
アロンが死んだ山〈ホル山〉がヨルダン南部キングス・ハイウェイの沿線に近いところにあります。果たして正確に聖書の記述のホル山が現在ホル山と呼ばれるその山かどうかは疑問の残るところですが、かなり高い確率でその山またはその周囲にそびえる山がホル山です。別の説では、カデシュの北にある山がホル山だと言われています。
ホル山に登るには、ペトラ遺跡の案内所か近くのワディ・ムーサの村でガイドを雇い、装備を整えて登らねばならなりません。(ペトラはヨルダン随一の観光名所なので、そこまでの経路はガイドブック等を見て下さい。一般のガイドブックに詳しく書かれています)ペトラの案内所でもらった印刷物には「危険だから絶対にホル山には一人で登るな」と書いてあります。そして、頂上まで片道6時間というハードな道のりです。登る人はあまりいないようで、私はホル山に登るのはあきらめました。
ホル山に登るのはたいへんなのですが、ホル山の隣の山に登って、そこからホル山の頂上を見ることはそれ程難しくないので、私はそれを選びました。それでも片道3時間でした。まず有名なペトラ遺跡に入ります。普通の観光客の行く一番奥まで、岩の遺跡を眺めながら約1時間歩き、そこから岩の坂道をさらに1時間半ほど登ると、最後の岩の遺跡エド・ディルに出ます。さらに頂上を目指して登ると、一瞬にして眺望の開ける場所に出ます。そこからは遠く反対側の死海、イスラエル側のネゲブ地方の荒野が見渡せ、そしてすぐ隣にホル山が見えます。ホル山の頂上には白いドームのアロンの墓と呼ばれるものが建てられています。
岩の上を歩いて行きますので、底の滑らない靴が必要です。数箇所危険箇所があります。滑落には十分注意してください。暗くなってからの歩行は困難です。頂上近くのエド・ディルまでは観光客が行き来していますので、一人でも心配なく登れます。
ペトラ …パウロの待避地? 「また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。」ガラテア1章17節
パウロは、ダマスコで回心した後「アラビアに行った」と自ら手紙に記しています。上のガラテア書の1章です。このアラビアがどこのことなのかはっきりはしていません。ダマスコの北東シリア砂漠のタドモル(パルミラ)方面か、またはダマスコから街道をまっすぐ南に下ったところにあるペトラではなかったか、と推定されています。
ペトラはギリシァ語で岩という意味で、岩で作られた古代都市の遺跡が残るヨルダン最大の観光名所となっています。現在は遺跡ですが、紀元前の昔からローマ帝国の時代までは大いに栄えた都市であったようです。前述しましたがヨルダン最大の観光名所ペトラについては多くの旅行ガイドブックに詳しく書かれています。 ヘロデの砦の跡・ムカーウィル …バプテスマのヨハネの死刑場所?
…「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください。」マタイ14章8節。キングス・ハイウェイ沿いの山の上にヘロデの砦の跡が残っています。ムカーウィルと呼ばれています。
福音書には、バプテスマのヨハネがヘロデに捕らえられ、そして妻ヘロデヤにそそのかされた娘に宴会の踊りの褒美として与えるということで首が切られ殺された記事が出てきます。そのバプテスマのヨハネの捕らえられて首を切られた場所がこのムカーウィルだと言われています。
福音書の記事を読むと、可能性のある場所は2ヵ所あって、ここと、もう一つ別のガリラヤ湖の近くのヘロデの居城のどちらか一方ということになります。
パプテスマのヨハネの活動地域と監禁場所としてのふさわしさから考えると、このムカーウィルの方が可能性が高いように思われますが、誕生祝いの宴会にガリラヤのおもだった人たちを招いていることを考えると、険しい山地の山の上の砦では不自然ではないかとも考えられます。
ムカーウィルへは前述のようなミニバスで行くしかありませんが、近くの集落から3キロ程離れた所にあるので、ムカーウィルまでは行きません。ミニバスを降りて40分位、何も無い荒野の中の道を歩かねばなりません。大変な僻地ですが、景色の良い所です。
ネボ山 「その同じ日に、主はモーセに告げて言った。『エリコの向かいにあるモアブ領のアバリム山地のネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの土地を見渡しなさい。あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。あなたの兄弟アロンがホル山で死に、先祖の列に加えられたように。』」申命記32章48−49節 モーセはモアブの草野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに全ての地方を見せるようにされた。ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。」申命記34章1,2,3節 モーセは約束の地を目前に見、そこに入ることなく神様の定めによって死んで行きます。旧約聖書の中でシナイ山の記事とともに最も厳粛な場面です。そしてクリスチャンにとっては、ヨルダン国内ではネボ山が一番聖書の記事を身近に感じることのできる場所だろうと思います。
ネボ山というのは一つだけ高い山がそびえているのではなく、死海から見て東側に広がる高地の一つの山です。旧約聖書に記されているネボ山の西に、西部の死海から続く平地(低地)に対して突き出た峰がいくつかあります。そのうちのどれか一つの峰が「ピスガの頂」と記されている場所です。果たしてどれがモーセが実際に立った峰かということはわかりません。一番北の峰がそれだろうということで現在そこがネボ山と呼ばれ、フランシスコ会の教会と記念碑が立っています。
そこからの眺望は素晴らしく、死海からエリコ、ヨルダン渓谷が眼前に横たわり、向かい側にはユダの丘陵が見えます。晴れて空気が澄んでいる時は遥かかなたまで見渡すことができるそうです。私はネボ山には3回行きましたが、3回とも晴れていたにもかかわらず、靄(かすみ)がかかっていて、遠くは見渡せませんでした。
モーセはここから約束の地全土を見たのです。実際にはここからは聖書に記述されている全部の場所は肉眼でも望遠鏡でも見えません。地形上不可能です。黙示録のヨハネと同じ霊的な特殊な視座を与えられてモーセはここからすべてのものを見渡したのでしょう。
頂上のフランシスコ会の教会からイスラエル側を見て左側(=南側)に、そこよりもやや高い峰があります。そちらの方が見晴らしは良いはずなのですが、頂上はヨルダン軍の監視所になっていて、頂上は立ち入り禁止です。峰の途中の軍の表示板までは立ち入りOKです。
〈 アンマンからマダバ、ネボ山への交通と宿泊 〉
ミニバスの料金は驚くほど安くてアンマンからマダバまで片道40円位です。所要時間は約1時間です。
マダバからネボ山までは約10キロメートルです。路線バスはありません。マダバの町からはタクシーを利用します。タクシーで20分から30分です。ネボ山は頂上の教会の門まで車で行けますので、体力に関係なく誰でも行くことができます。 タクシーをチャーターして頂上まで行き、そこで1時間ほど待ってもらって、再びマダバに戻っても、物価の安いヨルダンですから全部で約600円から1500円位です。これはメーターや決まった料金があるわけではなく、交渉によって決まります。何台かあたってみて交渉を始めてください。午前よりも夕方の方が安く値切ることができます。 マダバの町には1軒だけホテルがあります。ホテル・マダバ。ネボ山の頂上から決定的な写真を撮りたい場合などはマダバに宿泊して朝、昼、夕、とネボ山に登るといいと思います。しかしそれ程頻繁に登るのでなければ、マダバはアンマンから近いので泊まる必要はありません。十分に日帰りできます。マダバにはいくつもの教会があって、美しいモザイク画のある名所もあります。これについては一般のガイドブックに載っていますのでご覧ください。 その他
アンマンの北に新約聖書の時代に栄えていたジェラシュの遺跡があります。パウロはおそらく時々この町に立ち寄ったはずですが、聖書には記述はありません。
アンマンから日帰りで死海に泳ぎに行くことができます。もちろんイスラエル側でも泳ぐことはできますが、ヨルダン側の方がかなり交通費やシャワー施設等の使用料が安いので、ヨルダン側の方が経済的です。
写真によく出ているように、塩水の密度が高いためぽっかりと身体が浮かびます。様々な塩類(えんるい)が含まれた高濃度の塩水です。(30パーセント以上。普通の海水は3.5パーセント) 首から上は水中に入れないようにした方がいいでしょう。顔を上げて下向きなると身体が弓状になって膝から上もどうしても浮き上がってしまいます。この下向きの姿勢では泳ぐことはできません。いろいろ試してみましたが、唯一速く移動できる泳ぎ方は、立ち泳ぎのような姿勢になってからやや身体を後ろに倒し、手をボートのオールのように動かして後ろに進む方法でした。
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シリアは聖書の中ではアラムとして出きます。古くからカナンの地とユーフラテス流域との間の通過地域として聖書に登場する人物は何度も通っているはずで、直接地名は出て来ないものの重要な場所となっていました。ダビデ−ソロモンのイスラエルの全盛期にはアラムはイスラエルの支配下に入っていました。分裂二王国時代には、アラムはイスラエルと同盟関係を結んだり、敵対して戦争をしたりしています。
新約聖書では、パウロに深い関わりのある地としてアラムの主要都市ダマスコが出てきます。現在のシリアの首都ダマスカスです。
![]() タドモル …ソロモン時代の繁栄都市
聖書にはダマスコの他にはシリアの地名を示すものはあまり出てきません。次の列王記のタドモルは、シリアのシリア砂漠の真ん中にあるパルミラ遺跡の隣の町の名前です。
タドモール・パルミラにはダマスカスからバスがあり、約4時間です。有名な遺跡なので、どの旅行ガイドブックにもパルミラは載っています。
ダマスカス …パウロの回心 「…サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。』と呼びかける声を聞いた。」使徒9章3節。 使徒9章の初めにパウロの回心の記事があります。サウロが「その道のもの」を捕まえるためにダマスコに急いでいた途中光に打たれ主の声を直接聞いた場所は、「ダマスコの近く」だと記されています。サウロ(パウロ)はそこで目が見えなくなり、手を引かれてダマスコの町に入ります。その後9節からがダマスコの町の中「まっすぐ」と呼ばれる通り周辺での出来事です。
カウカブの丘 パウロ回心の丘 St.Paul in the village of kokab.
パウロが天からの光に照らされたのは「ダマスコの近く」と書いてあるだけで正確な地名は全くわかりません。エルサレムからダマスコに向かう街道沿いのダマスコの近くのどこかだということしか推定できません。伝承によると、ダマスカス郊外のカウカブの丘だとされています。必ずしもそこがその現場だったとは言えない訳ですが、そこに近い場所だと考えられます。
カウカブの丘には石造りの小さな記念碑のような建物が広い緑の丘の連なる中に建っています。
「ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が『アナニア』と呼びかけると、アナニアは『主よ、ここにおります。』と言った。すると、主は言われた。『立って、《直線通り》と呼ばれる通りへ行き、サウロという名のタルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。』」使徒9章10,11節。使徒の働き
「まっすぐ」という街路
「まっすぐ」という街路
現在のダマスカスはかなり広いのですが、旧市街は城壁に囲まれた南北800メートル東西1200メートルの楕円形の狭い地区です。城壁は高くて立派なものではなく、2階建ての家とほぼ同じ高さで、厚さもそれ程あるわけではありません。単に「塀」と言った方がいい位のところがあります。
ホテルなどの並ぶ現在の町の中心は旧市街の西方です。新市街から旧市街東側の「まっすぐ」まで行くのには距離があって少し苦労しますが、旧市街の裏通りの細い路地を歩いていくと、たくさんのめずらしい光景に出会うことができます。私が一番面白かったのは肉屋の前でのラクダの首の解体でした。
城壁の東門から西に向かってまっすぐに伸びている道路が「使徒の働き」に出てくる《「直線通り」、「まっすぐ」という街路、Street
called Straight》です。その東門から入った道路の周辺でパウロに関する『使徒の働き』の記事の出来事が起こりました。
アナニアの家の教会 東門を入って20メートル位の所を右に折れると、アナニアの家の教会への路地に入ります。その路地をずっと行った突き当たりがアナニアの家の教会です。これは、アナニアの家があった所だと言われています。もちろんこれも確かなことはわかりません。地下に礼拝堂があり、隣の部屋に聖書のパウロの回心の記事を扱った絵画が飾られています。 パウロ教会 再び東門に戻り、「まっすぐ」という街路を80メートルほど西へ進むと左側にパウロ教会があります。このあたりがパウロの目からウロコが落ちたと思われる場所です。壁画が美しい教会で、普段誰もいない時は中は暗いので管理人に電気をつけてもらいます。ガイドブックの中には「パウロ教会」という名前がここともう一つ別の場所(パウロ門の教会)の2ヵ所を混同して使われていることがあります。こちらのパウロ教会は光に打たれて目の見えなくなったパウロがダマスコに入って滞在していた家だという場所(これも伝承)の教会です。 パウロ門の教会 東門を出て城壁に沿って右側(南)に進んで行くと、300メートル程のところに城壁に沿ってパウロ門の教会があります。これは、パウロの出入りした門、カゴに釣り下げられてダマスコを脱出した記事を記念する教会です。釣り下げられて脱出するパウロのレリーフなどがあります。 カシオン山 「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」創世記4章8節 ダマスカスの北にそびえるカシオン山が創世記の初めに出てくるカインとアベルの殺人事件の場所だという伝説があります。ただしこれはほとんど信憑性のないものです。 マアルーラ ダマスカスの北60キロに山に囲まれたマアルーラという町があります。ここでは現在でもなお新約聖書時代にイスラエルの人々の話していた言葉「アラム語」が話されています。アラム語の響きを聞くことができます。ここにある修道院に行くと、アラム語の資料等があります。ダマスカスからは1時間ほどで行けます。
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旧新約聖書とトルコの広大な大地
新約聖書の時代では、初期教会の宣教の拠点となったアンテオケを初めとしてパウロ、ペテロ、その他初期教会の指導者たちが宣教し教会を築いていった少アジア地方の各都市がここにあります。
![]() 1から7は黙示録の7つの教会の位置
トルコの大地は周辺のアラブ諸国と比べると広大です。西端から東端まで車で走り続けて30時間位かかります。鉄道はあまり発達していないので、ほとんどバスでの移動となります。
広大なトルコの大地のバス移動はたいへん素晴らしい旅です。トルコの長距離バスは車両もサービスも良く、しかもたいへん安いのです。
夜行バスの朝の目覚めの時や、長距離の終着の前などにコロンがふるまわれます。両手で水をすくうようにして手を出すと、そこに車掌さんがコロンを注ぎ入れて配ってくれます。コロンの使い方は周囲のトルコ人と同じようにします。私はこのコロンが大好きになり、何本も買ってきました。トルコ語でコロンヤと言い、化粧品店や雑貨店に売っています。
アララテ山 …ノアの箱舟漂着の山
「第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。」創世記8章4節
アララテ山は夏でも冠雪のある高い山です。標高は5165メートル。そして、別名「恥ずかしがり屋の山」と呼ばれ、ほとんど頂上を雲に隠しています。運がよくないと頂上は見えません。箱舟が漂着したのは、一番高くて大きなアララテ山(大アララテ)、またはその後ろにある富士山のような円錐形の山(小アララテ)、またはその周辺の山です。
アララテ山は5千メートルを越す山ですから、ヒマラヤに登るのと同様の大掛かりな準備が必要です。予め日本のトルコ大使館に届け出て、現地でガイドや荷物を運ぶ人や車両を雇い、一隊を作って登ることになりますので、素人は登れません。
かなり昔からアララテ山の周辺ではノアの箱舟の残骸を探す発掘調査が行われています。そして時々「ノアの箱舟発見」のニュースが流れますが、確定的なものは発見されていません。
1985年に「ノアの箱舟の跡」が発見されたという発表がありました。本物である可能性はほとんどないのですが、一つの観光名所になっています。ドゥバヤズィットからは25キロメートル程の所にあります。バスはありません。町の旅行代理店に行くと車を斡旋してくれます。
アララテ山を見るためには、ふもとのドゥバヤズィットという人口6千人位の小さな町まで行きます。ドゥバヤズィットはトルコの最東端の町で、イラン国境は目の前です。外国人旅行者からはたいへん評判の良い町です。
大アララテ山
ドゥバヤズィットへはイスタンブールからバスで約22時間です。直通バスは少なく、手前のアールまでの便が多いので、そこまで行って、あとはミニバスがドルムシュ(トルコの乗合タクシー)で行くのが普通です。
トルコの大地アナトリア平原は東へ進むと標高は一般に高くなってきますが、たいへん水の多い土地が多くなります。今なお洪水の後かと思わせる程のたくさんの水が筋を作って、たくさんの川になって流れています。水はきれいで東部の水道の水は極めて美味です。
ドゥバヤズィット周辺にはアララテ山以外にもたいへん美しい山々が並んでいます。緑の山、オレンジ色の山、茶色の山…地質によってそれぞれの色を持っています。なだらかな山が多いので途中まで登ることができます。
ドゥバヤズィットの町からアララテ山の写真を撮るには多少苦労します。頂上の雲の切れ目を待たねばならないこともありますが、トルコ軍の基地が町の東側に大きく広がっているためです。外国では軍事施設の撮影は禁止されています。特に戦闘の起こっている地域では逮捕されたりフィルムが没収されることがありますので注意して下さい。
町を出て基地が見えなくなる所まで行って雲の切れるのを待っていると、今度は地元の住民(老若男女問わず)が寄ってきて、是非自分の写真を撮ってくれ、とせがまれることになります。
ドゥバヤズィット周辺の山 ドゥバヤズィットは時々クルド人の過激派ゲリラ事件が発生する地域のため、町はかなり厳重にトルコ軍と警察によって治安管理されています。町の真ん中の警察署の前には常時装甲車が止まっています。そして町の中は銃を持った兵隊がパトロールしています。現地の人は時々身分証明書の提示を求められています。外国人観光客は現地人と似た顔付きをしていない限り呼び止められることはありません。 トルコ人はトルコ南東部のクルド人地域にはあまり旅行をしたがらないようです。イスタンブールで話しをしたトルコ人の何人かから「PKKが出るから行くのはやめたほうがいい」と言われました。PKKとは独立を要求してテロ活動をしているクルド人ゲリラのことです。バスがアールよりも東へ進むと、何度も軍の検問に遭います。普通は警備兵がバスに乗り込んできて身分証明所を確認して回ります。日本人の場合はパスポートをちらりと見るだけか、パスポートも見ずに Tourist?と尋ねられるだけです。2回だけでしたが全員がバスから降ろされて一列に並ばされたことがありました。外見上外国人は私一人だけで、私は一人だけ列の中には入れられず、バスのそばで検問を眺めていました。まるで映画の一シーンを見ているようでした。ほぼ直立不動でまっすぐ一列に並び、一人ずつ身分証明所の提示を求められ何か尋問されているようでした。バスの荷物室の点検も行なわれました。5年程の間に1万人以上のトルコ人がPKKの犠牲になっているようで、警戒はさすがに厳しいものがありました。
町の中央にホテル・イサク・パシャがあります。たいへん居心地の良いホテルで、私は予定を延ばしてそこに3泊してしまいました。ドゥバヤズィットの物価はイスタンブールの半分以下です。イスタンブールの薄汚いドミトリーと同じ料金でバス付きのきれいなダブルルームに泊まることができました。
ハラン(カラン) …アブラハムの寄留地
「テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。…テラは二百五十年の生涯を終えて、ハランで死んだ。」創世記11章31,32節
「わたしの子よ。今、私の言うことをよく聞き、急いでハランに、わたしの兄ラバンのところへ逃げて行きなさい。」創世記27章43節 アブラハムの一行がウルからカナンに移る途中居住していたハラン(カラン)は、シャンル・ウルファという町から48kmの所、現在のトルコとシリアの国境の近くにあります。
ハラン(カラン)
かつては栄えた時期があったようですが、現在は小さな集落があるだけで、真夏の暑さを緩和するために作られた独特な土の円錐の屋根を持つ建物が並んでいる田舎の集落です。商店などは一軒も無く、時々訪れる観光客のためにテントを張った簡単な茶店があるだけです。冬はそれも閉鎖されているそうです。
ハランへはバスなどの交通機関はありません。シャンル・ウルファの町で車をチャーターして行きます。ツーリストインフォーメーションでも手配してくれますが、ホテル・イペック・パレス近くのハラン・ドルムシュという会社に行くと運転手付きの車を用意してくれます。1名から4名まで集まった人数で1台分の料金を頭割りにしているので、4人集まればかなり安く行けます。1台の料金は2500円位です。 アンテオケ(アンティオキア)…初期教会の宣教の中心地 聖書の中にはアンテオケは2ヵ所出てきます。一つはピシデアのアンテオケ、もう一つはシリアのアンテオケです。ここで紹介するのはシリアのアンテオケです。ピシデアのアンテオケは現在完全な廃虚となっていて、かつての建物の石が転がっているだけです。 「しかし、その中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシァ語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち返った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアに派遣した。…こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはパウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出して、アンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて、多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」使徒11章20−26節
ステパノの殉教の後エルサレムでの迫害を避けるために散った人々の一部がアンテオケに逃れ、そしてここで神の言葉が広められて、最初の異邦人教会ができます。
その後ここではバルナバ、パウロが教えるようになり、このアンテオケで初めてキリスト者、クリスチャンという言葉でキリスト信仰を持つ者が呼ばれるようになりました。さらにアンテオケの教会は発展し、アンテオケは少アジアからマケドニア(ギリシァ)への宣教の拠点として重要な場所となります。
かつてのアンテオケはシルクロードの陸の終点です。シルクロードはここからは海路となって西に向かいます。シルクロード交易が盛んだった頃はかなり栄えていました。現在は港は土砂に埋まり、海岸線は遠く離れてしまいました。
アンテオケは現在も不思議な雰囲気のする町です。ヨーロッパとアラブとアジアの雰囲気が微妙に入り交じっています。町の中心部の建物は、フランスの占領統治の影響でヨーロッパとほとんど変わりません。旧市街に行くと、トルコ東部からイラン方面に見られる衣装を着けたアジア風の人もいれば、頭にイカールとカフィーヤ(頭に布をかけ革リングでそれを押さえるかぶりもの)をつけたアラブ風の人もいます。
イスタンブールからアンテオケまでは直通のバスが出ていて16時間位です。現在はアンテオケとは呼ばれず、アンタクヤと呼ばれています。しかし地元とトルコ東部では、かつてシリア領だった時の呼び名のハタイHatayと呼ぶのが普通です。ですから、このあたりではバスの行き先表示や地元の企業名などはほとんどハタイとなっています。
かつての宣教の中心地であったアンテオケですが、残念ながら聖書の記事に結びつくような遺跡等はありません。町中イスラームのモスクばかりで、時間になるとあちらからもこちらからもモスクのスピーカーからアザーン(祈りを呼びかけるコーランの朗唱)が聞こえてきます。
町の中心にオロンテス川が流れ、背後にシルピオン山があり、美しい町です。このシルピオン山の中腹にペテロ教会という洞窟に作られた教会の跡があります。毎日たくさんの観光バスの立ち寄る名所で、かつてペテロが教えた場所だという伝説もありますが、実際は12世紀以降の十字軍時代の産物で、聖書の記事とは結びつきません。ただし、ここから見下ろすアンテオケの町の景色は素晴らしいので、一見の価値はあります。町の中心からは約3キロメートルで歩いて行けます。 タルソ(タルソス) パウロの生まれた町
「それを知った兄弟たちは、サウロをつけてカイサリアに下り、そこからタルソスに出発させた。」使徒9章30節
「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。」使徒11章25節
タルソはパウロの生まれ故郷です。パウロは回心の後、エルサレムからタルソに戻っています。その後アンテオケの教会に合流し、各地への宣教が始まります。
タルソは当時はこの地方キリキア州の中心で学芸の都市としてアテネと並ぶ程の評判のあった町です。また、立派な港があり商業都市としても周辺では最も大きな町でした。やがて港は土砂に埋まり、町は衰退していきました。現在の海岸線は20キロも移動しています。
現在のタルソは、西のメルシン東のアダナの2つの大都市に挟まれた目立たない町となっています。一見したところでは、郊外の広い平地に窯業などの工場が並んでいて、タルソの町はそこで働く人々や隣のメルシンやアダナの大都市で働く人々のベッドタウンという感じでした。
タルソの町の中心に「パウロの井戸」と呼ばれているところがあります。ここは「パウロの生家の跡」と言われています。日本語の旅行ガイドブックにはあまり出ていないようです。
パウロの井戸
タルソへ行くには隣のメルシンかアダナに泊まってそこから列車又はバスで行くのが便利です。大都市の中間なので交通の便は良く、列車は昼間30分に1本往復しています。タルソはメルシンとアダナのちょうど中間になり、どちらからもバス又は列車で30分位で着きます。「パウロの井戸」へ行くには列車の方が便利です。
使徒11章25節にはバルナバがパウロを探すためにアンテオケとタルソを往復した記事があります。アンテオケとタルソの間は一部高速道路を走るバスで3時間半かかります。陸地に食い込んだ湾を回って行くことになりますので、当時は船を使うのが最も早かった筈です。
タルソの市街はそれ程大きくありませんが、予め手に入る地図やツーリストインフォメーションなどは無いので「パウロの井戸」に行くのには多少苦労します。
「パウロの井戸」はタルソの鉄道駅から徒歩で約5分から10分の近いところにあります。駅前の広い通りを歩いて行くと街路に小さなタルソ全体の案内板があり、おおよその位置を知ることができます。「パウロの井戸」は裏道のようなところにありますので、あとは近くの人に聞いて行きます。
トルコ語の表示で「聖パウロ井戸」は「 Saint Paulus Kuyusu 」です。案内板の省略表記では「 SENPOL KUYUSU 」となっています。
アタリア・カパドキア
パウロが伝道の際出港したアタリアは現在のアンタルヤで、現在も美しい港町です。たいへん有名な地中海岸の観光地で、町を歩くとヨーロッパから来たお金持ちの観光客ばかりが目立ちます。高級リゾート地のため、ホテル、レストランは驚くほど高く、貧しい旅行者にとっては居心地の悪い所です。私は通過したのみでした。
カパドキア地方は初期教会の時代には少アジアの重要な宣教地でした。観光地として有名な奇岩地区です。奇岩の中に作られた13世紀頃までは多数の教会があった跡が残っています。また、巨大な地下都市の跡も残っていて、当時教会であった部屋を地下に見ることができます。
アタリア・カパドキアは有名な観光地です。多くの旅行ガイドブックに詳しいことが載っています。 エフェソ(エペソ)・(スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、サルデス、ラオデキア)
「…そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。パウロは群集の中へ入って行こうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。」使徒19章29節
「その声はこう言った。『あなたの見ていることを巻き物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。』」黙示1章11節 エペソはパウロの時代には大商業都市、そしてアルテミスの偶像崇拝の中心地でした。パウロは第2回伝道では短期滞在、第3回伝道ではエペソに3年程の長期滞在をしています。
エペソにはトルコで最も大規模な当時の遺跡が残っています。エペソの遺跡にはたくさんの建造物の跡が残っています。中でもとりわけ目を引くのは、巨大な半円形の劇場跡です。半円形の劇場跡はローマ時代の遺跡のどこへ行ってもあるのですが、エペソのはその大きさにびっくりするほどで、また立派なものです。そして、この劇場は、使徒19章の記事にある騒動の起こった現場だと考えられます。
またエペソとその近くには偶像アルテミス神殿の跡、偶像母マリアの滞在したという伝説の家、福音書記者のヨハネの墓があると伝えられるヨハネ教会があります。
エペソの遺跡はトルコでも有数の観光名所となっており、いつも観光客であふれています。エペソへの行き方等は旅行ガイドブックに詳しく出ています。遺跡の周辺にはホテル等はありません。宿泊は遺跡から3キロ程離れたセルチュクの町になります。この町は観光客相手の悪質な商売人の活躍の場となっていますので、注意してください。
エペソから北と北東に『ヨハネの黙示録』の7つの教会の場所があります。いずれも当時の跡というのはローマ時代の石の建造物の柱などによって識別されます。私は考古学や建築美術には関心が無いので、あちこちの遺跡を回っているうちに飽きてしまって、かなりの訪問予定地を省略しました。詳細に見れば柱に刻まれている文字や彫刻にはそれぞれ重要な意味や特徴があるのでしょうが、学問の素養の無い私にはどれも同じに見えてしまいました。
7つの教会があった場所は現在は廃虚の遺跡となっています。スミルナのみ例外で、現在トルコ第2の大都市イズミールに発展しています。イズミールの中心部から歩いて20分位のところに古代の建物の発掘された遺跡の広場があり、石の柱や土台、水路の跡などが残っています。 トロアスとトロイ トロアス・・・ヨーロッパ宣教の出発点 「それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。その中で、ひとりのマケドニア人が立って『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください。』と行ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、そこからマケドニア州第一区の都市でローマの植民都市であるフィリピに行った。」使徒16章8−11節
トロアスでパウロは幻を見、マケドニアに向かうことになります。この事によって福音はヨーロッパへ、そして全世界へ広がる道が開かれたのでした。
トロアスは現在は小さな漁村です。パウロの時代には立派な港があったようですが、港はすでにかなり昔に土砂に埋まって、港のあった場所は陸地になっています。
トロアスに行くには、近くの町チャナッカレからタクシーで行くしかありません。ごく少ない回数でミニバスが走っているようですが、路線等はよくわかりません。トロアスへ行く観光客はほとんどいません。
チャナッカレはイスタンブールからバスで約6時間、イズミールからは5時間程度です。半島からアジア側トルコに渡る地点として重要な場所で、チャナッカレの港からは大型バスの乗ったフェリーが常に出入りしています。
チャナッカレは静かで居心地の良い町です。トロアスの北30キロメートル位のところに有名なトロイの遺跡があるので、チャナッカレはトロイへ向かう拠点となっているのですが、団体のツアーはトロイ遺跡はエペソ方面へ向かう途中で寄っていくので、ここに宿泊することは少ないようです。
トロイは、ホメーロスの『イーリアス』に出てくるトロイの木馬の場所です。イーリアスの物語は長い間フィクションだと考えられてきましたが、ドイツ人シュリーマンの発掘によって古代にトロイがあったことが実証されました。木馬による戦争についてはもちろんはっきりしないのですが、イーリアスの記述通りトロイという都市があり、トロイ戦争のあったことがわかったのです。
トロイはローマ時代まで栄えていた所で、この遺跡も石の柱と土台、円形劇場の跡などがあります。特にこれと言って見るべきものはありませんが、遺跡を離れて海岸の方へ行くと、トロアスと同じ静かな海岸に出、わざわざ土砂で埋まってしまったトロアスに行かなくても昔を偲ぶことができます。遺跡の入口には有名な木馬の模型が立っています。
トロイの遺跡にはチャナッカレのオトガル(バスステーション)脇の幹線道路を走るトゥルヴァ村行きのミニバスに乗って行くことができます。ミニバスの停留所については港にあるツーリストインフォメーションで地図とともに教えてもらえます。また、地元の人に聞いてもたいていわかります。ミニバスで遺跡の入口から200メートル位の所まで行けます。
また、トロイに向かう自動車を斡旋している会社が港近くにあります。ツーリストインフォメーションでもその場所は教えてもらえます。そこで料金を聞いてみるとかなり高額で、三千円位だったと記憶しています。ミニバスで行くと往復でわずか250円位です。
←目次
パウロの宣教地は小アジアからマケドニア(ギリシァ)に広がりました。そしてギリシァ各地にも多くの教会が立て上げられていきました。新約聖書の書名にはギリシァの地名がつけられているものがあり、現在のギリシャ各地の地名コリントス、フィリピ(ピリピ)、テッサロニケなど、馴染み深い感じがします。
新約聖書は共通ギリシァ語で書かれています。2千年前の言葉なので、現在のギリシァ語とはかなり違いますが、文字や発音は共通する部分がほとんどです。 このページでは中東を扱っていますが、ギリシァは唯一ヨーロッパです。バスでトルコからギリシァに向かうと、国境を越えた所で様子がガラリと変わってびっくりします。たくさんの変化の中で最も目につくのは、まずそこにいる人間が全く違っていることです。ギリシァ人は完全な白人です。 ギリシァは観光国であるにもかかわらず他の国と比べるとあまり居心地は良くないのが実状です。この事については「エリシァの手記」の中の「アテネ・アレオパゴス」に書きましたので、関心のある方は一旦スタートページの目次に戻り、「エリシァの手記」を開いてみて下さい。
ギリシァ地図(8.サモトラケ)サモトラケ …パウロの寄港した島 「わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、そこからマケドニア州第一区の都市でローマの植民都市であるフィリピに行った。」使徒16章8−11節 トロアスに着いたパウロ一行は、マケドニアに行くようにという幻を見、ここからヨーロッパ宣教に出発します。現在はトロアスとサモトラケの間にはトルコ−ギリシァの海上国境線があり、船で直航することはできません。サモトラケはギリシァ領になります。上の図で字が少し消えてしまっていますが、8番がサモトラケ島の位置です。 サモトラケ島で港が開けるのは風の関係で島の北西だけです。カマリオティッサという小さな港町があります。港から数キロのところに古代の街の跡が残っていますが、パウロ一行はそこへは行かず、この港の近くのどこかに一泊して翌日早速ネアポリスへ向かったと思われます。 サモトラケは静かな島です。エーゲ海の東端なので観光客はあまり多くありません。海はたいへんきれいです。
サモトラケ島 「トロアスからサモトラケへ」行く方法は、海上は国境線があるためまずイスタンブールに戻り、ここからバスで陸路国境を越えてギリシァに入ります。国境を越えて最初のギリシァの町であるアレクサンドロポリスから船で行きます。アレクサンドロポリスは上の図の7番です。 アレクサンドロポリスからサモトラケ行きの船は、アレクサンドロポリスの海岸に沿った道路を歩いていると船会社がすぐに見付かります。季節によって便数が異なります。夏は便数がかなり増えます。1996年6月11日から7月10日の時刻表では週2便です。 イスタンブールからアレクサンドロポリスは、国境の手続き1時間半を含めてバスで5時間位、アレクサンドロポリスからサモトラケは船で2時間半位です。 ここから西はすべてギリシァ領なので、パウロと同じコースを辿って、船でネアポリス、ピリピと進んで行くことができます。 聖書とは離れますが、サモトラケはホメーロス『イーリアス』のポセイドンの戦争見物の場所としても有名です。 ネアポリス (カヴァラ) …パウロのヨーロッパ宣教最初の上陸地 「わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、そこからマケドニア州第一区の都市でローマの植民都市であるフィリピに行った。」使徒16章8−11節 パウロ一行がサモトラケを出て上陸したのはネアポリスという港です。ネアポリスはピリピの外港でした。ネアポリスは2回名前が変わっていて、現在はカヴァラと呼ばれています。ネアポリスと呼ばれていたのはローマ時代までで、その後のビザンチン時代はクリストゥポリス(キリストの町)と呼ばれていました。サモトラケからネアポリスまでは現代の船で約4時間です。 ネアポリスからピリピまでは約10キロメートルです。ピリピは現在は廃虚となっていてホテルなどは無いので、カヴァラ(ネアポリス)に宿泊することになります。(反対側から来れば、テサロニケから十分日帰りできます。)カヴァラのバスステーションに行くと、ピリピ遺跡を通るバスの時刻表が掲示されています。昼間は1時間から1時間半に1本のバスがあります。ギリシァ語だけでなく英文表示もあります。 フィリピ(ピリピ) …パウロのヨーロッパ最初の宣教地 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」使徒16章31節 ピリピで占い師の女奴隷から悪霊を追い出し、占いができなくなったことにより、その主人たちに訴えられ、パウロとシラスは逮捕され牢に入れられてしまいます。ところが夜大地震が起こって鎖が解き放たれ、番をしていた看守は囚人が逃げたものと思い、自殺しようとします。パウロはそれを止め、囚人が逃げていないことを告げます。看守はひれ伏してパウロらを外に連れ出し、「先生方、救われるためには何をしなければなりませんか。」と尋ねます。その答えが有名な16章31節の言葉です。
ピリピの遺跡
ピリピの遺跡はネアポリス(カヴァラ)から約10キロメートル、路線バスで約30分の所にあります。ここもやはり石の柱、円形劇場等の物が立ち並ぶローマ時代の遺跡の一つです。パウロとシラスが入れられていたという牢の跡がありますが、果たしてそこがそうだったのかははっきりしません。
テサロニケ 「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。」使徒17章1節 ピリピからテサロニケへ向かったパウロ一行は、テサロニケでユダヤ人の会堂で3回の安息日にわたって福音を宣べ伝え、ユダヤ教徒と議論しました。一部の人々は福音を受け入れますが、一部の人々からは激しい反対が起こり、反対者たちは町のヤクザ者を集めて暴力的手段まで使ってパウロらを捕まえようとします。 パウロらはテサロニケからベレアに逃れ、ここでも福音を伝えますが、テサロニケのユダヤ人たちはここまで彼らを追ってきてさらに伝道を妨害します。 現在のテサロニケはたいへん大きな商業都市です。町の中心部から西へ2キロ程のところにローマ時代の都市の跡を掘り返している発掘現場があります。その他には特に見るべきものはなく、空気も水も悪い騒々しい町なので、商用でなければここに宿泊するのは避けた方がいいと思います。 現在のテサロニケはギリシァ第2の都市で、北部商工業の中心地です。バス、鉄道ともテサロニケを中心に便が良いので、ベレアには列車で行くことができます。ピリピのあるカヴァラからは鉄道路線はないのでバスとなります。ギリシァのバスはトルコと比べると著しく乗り心地が悪く、バスの旅は快適ではありません。鉄道は普通列車は遅れがしばしば出ますがのんびりと移動するには適しています。最近はヨーロッパ中北部と同じくインターシティーなどが走っていて、これに乗ると日本の新幹線以上に快適です。ただし普通運賃の倍以上の料金です。 アテネ 「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん。あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。…』」使徒17章22節 アテネのアレオパゴス(アレースの丘)で、パウロは有名な「知られない神に」という演説をします。そのアレオパゴスは、アテネを訪れる人が必ず一度は行くアクロポリスの近くにあります。 アテネの真ん中のシンタグマ広場からアクロポリスを目指して歩いて30分位、その歩行者道路に沿ってアクロポリスの入口手前の右側の岩の丘です。丘の登り口右側に使徒の働きの記事を記した石の黒い板がはめ込まれています。団体バスの場合は反対側からアクロポリスに登りますので、アレオパゴスの前は通りません。
アレオパゴス 丘の上の岩はたくさんの訪問者の靴で削られたためかツルツルしていて大変滑りやすくなっています。転倒、転落に十分な注意が必要です。 アレオパゴスについては、「エリシァの手記」のページで「アレオパゴス・アテネ」に詳しく記しましたので是非お読み下さい。
コリント 「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。…パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシァ人の説得に努めていた。…パウロは一年六ヵ月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を伝えた。」使徒18章1−4−11節 パウロはアテネのアレオパゴスの演説の後、コリントへ進んでそこで一年半の長期滞在をします。ここでコリントの教会の基礎が出来上がり、次の第3次伝道旅行でも立ち寄っています。
![]() アクロコリントから見下ろすコリント遺跡 まっすぐに地中海に向かっている道はレカイオン通り パウロがエペソからコリントの教会に宛てて書いた手紙「コリント人への手紙」を読むと、当時のコリントがどんなところであったのかということや、コリントの教会の抱えていた問題が良くわかります。 現在のコリントの町は、聖書時代の古代コリントとは少し離れています。コリントの鉄道駅から約800メートル程の、現在のコリントの町の中心にあるバス案内所に行き、そこで古代コリント(パレス・コリント)行きのバスの乗り場を確認して路線バスに乗ります。(英語の通じない人が多いのですが「パレス・コリントス!」と叫んでいれば、誰かが案内してくれます。わからない場合は近くにツーリスト・ポリスのオフィスがあるのでそこで英語で尋ねることもできます。)バスはコリント新市の中心から古代コリントの遺跡前まで、約15分です。1時間に1本位の便数です。歩いても行けますが、最近古代コリント近くを新しい高速道路が横切るようになり、かなり遠回りしての遠距離歩行となります。 パウロが活躍していた場所は遺跡の中にあります。ヘブライ人の会堂と書かれた古代の碑文も見つかっています。 また、時間があったら背後にそびえる山アクロコリントの途中まで行ってみて下さい。古代コリント遺跡全体と地中海を見下ろすことができ、たいへん素晴らしい景色です。(上の写真はその一部) コリントへはアテネからバス又は列車で行くことができます。 アテネ−コリント間は、列車で約2時間です。アテネからの日帰りは十分に可能です。 バスの方がやや早いのですが、エーゲ海の断崖の上を走る列車の方が景色が良くおすすめできます。また、コリントに着く直前に有名なコリント運河が見えますので見逃さないようにしてください。下の写真は列車の窓から見たコリント運河です。
![]() コリント運河
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