東 日 本 大 震 災

(2011年3月11日 14時46分)

                
 
      〜〜〜〜あの日、あの時〜〜〜〜(4月4日) 
 3月11日、亡き父の誕生日だ。存命なら百十一歳というところ。 14時46分、私は、
歯の治療を済ませ、家に帰る途中だった。グラッ!と来た。「地震だ!」 昼下がりの町、
通る人もいない。電線がすごく揺れている。ブロックが崩れる。
「大きい!どうしよう?どうなるの?」どんよりとした、地球の終り?のような気配の中、
ふらつきながら「死ぬの?イヤ、ダメ!家は?」「私、死ぬの・・・」 頭の中はもう、真っ白
ボーットしてしまう。
角からお年寄りを庇いながらご婦人が出て来た。 人に出会ったとたんに、急に怖くなった。
そばの空き地に三人で佇んでしまう。無言・・・揺れが落ち着いた。      
「どうしよう?小学校がそばだ。校庭へ行こうか?」と思いながらも自然と足は我が家へと
向かっていた。学校の裏を通った時、児童たちのワーワー言うざわめきがすごかった。
子供たちの様子を想像し、思わず頬がゆるむ。「瓦は飛んで来ないだろうか?」と、上を注意しながら、道の真ん中をフラフラしながら夢中で歩く。
行き会った男性曰く「この辺は好いですよ。あっちは(我が家の方)もっとひどい。瓦に注意してください。道がひび入ってますから足元にも注意して・・・・・」
T家はもうガチャガチャ、ご主人が素足で外に立っている。無言。道路は盛り上がっている。
Y子さんも、ただ佇んで自宅を見ている。Oさんも路上で涙声で携帯をかけている。
夢中で林を抜け、ボーットかすんだ目に、やっと赤い屋根が見えてほっと・・・
いやいや、玄関を開けた途端に・・・・・ウワァ〜〜ヤットコセットコ上がり、リビングに・・・
キャァ〜〜まるでダンプでガサッと空けたようにもう、ガチャガチャ〜〜〜家屋が無事だったのは幸いだった。
そのうち、夫も帰ってきて、片づけなんていうもんじゃない。物をどかし、踏んづけてもOK
と、とにかく、ベッドと、トイレへだけは通れるようにと、足の踏み場を確保。電気のない、
水のない、寒い一夜を過ごす。
  (同じ班でも5世帯は避難所へ) 電気は翌日午後来たが、断水はこの後一週間続く。

       
    〜〜〜〜一夜が明けて〜〜〜〜(4月5日)
 避難することなく我が家で過ごした一夜、夜は未だ寒い。暖房は何もなく重ね着したくても
出すことままならず、ただただ、ホッカロンが頼りだった。セーターのまま、懐中電灯を持ってベッドに入っても、余震の続く中、眠れたもんじゃない。ひたすら夜の明けるのを待った。一夜が明けて、晴天だったのはラッキー。隣のTちゃん(高校生)が「大丈夫ですか?」
庭先にきてくれた。きっと、我々老人夫婦を気遣って、親がよこしてくれたのだろう。
役場に給水車が来ているとのこと、水を持ってきてくれた。「有難う。我が家でも貰ってこよう」と、・・・「あれっ、通行止め!」瓦屋根がやられ、ブロック塀は崩れ、地割れ。同じ自治会内で何ともすさまじい光景。戻って迂回して行ってみたらこれが行列。山梨県からの応援車で車体には【南アルプスの水】とある。一人、12リッター。おむすび一個、ティーバッグ二個。(我々二人なので食べ物には不自由なかったのだが、この際と思いご相伴する)
とにかく部屋はガチャガチャ!この様子、写真撮りたくても、カメラは何処?出せない!
書斎はもう本の山、入ることも出来ず、雨戸を閉めないままの数日間になった。
和室、これが大変。仏壇は無事でも位牌が、灰が落っこちて、そこへ前面総ガラスの本箱。
と言っても上半分は人形やら陶器やらなんやらの置物、軽かったためか見事に倒れ、ガラスとせともの、灰・・・もう、ここも最後まで手つかずのままだった。
箪笥は30センチほど動いていたが無事。上の人形ケース、私が作った「藤娘」ケースは見事にガチャン・・・・ 人形は無事のよう。(後日記)
何も手つかず、ただただ余震に怯えていた。そして午後三時ごろ、やっと電気が来、プロパンも使えるようになり熱いお茶が飲めた。
       
    〜〜〜〜電気は来たが断水は続くなり〜〜〜〜(4月6日) 
 電気がきた!だがテレビは音声は出るものの映らない。台から落ちて液晶板が壊れたのだ。
盛んに三陸沖の津波の放送を繰り返していたが、こちらは【メクラサジキ】と言ったところ。
寒くなってきた。我が家の暖房は薪ストーブ。あの70キロものストーブが20センチぐらい
ずれたのだ。元の位置に戻したものの、煙突、また屋根の上の方がどうなっているかが心配。
点検して貰わないと、この余震の続く中、怖くて焚くことが出来ない。石油ストーブはなく、
炬燵もなし。小型の電気ストーブをそれぞれが抱えて寒さを凌ぐことになった。じっとしていても寒い。少しづつ手をつけ始める。
私はキッチンから・・・冷蔵庫は10センチほどずれ、扉が開いて中のものが飛び出している。
お豆腐がグチャッ!、レンジは台から逆さまに落っこち、お醤油、塩、そこへ米びつがひっくり返り、やかんの水でもう何もかも混ぜこぜ。水はまだ出ない。ボロを小さくしては拭い捨てる。食器棚も中はガチャガチャ、引き戸だったのは幸い。皆、前に倒れ壊れ、戸につっかかっていて戸を開けることが出来ないまま、手を付けずにほっておく。
食事には余り不自由しなかった。なにしろ二人。調理をしないで、あるもので間に合わせる。冷たいものは食器にラップをかけて盛り、温かいものは食べた後すぐ、テッシュで拭い、洗い物を少なく水の節約。
今回の地震、那須でも山のほうは被害が少なく、温泉は営業しているとのこと。無料入浴券が出るとのことで、早速センターに貰いに行き、何日ぶりかでお湯に入ることができた。それも普段なら、まず入ることがないと思われる、一泊ウン万円のところ。さすがにこのときだけは地震があったればこそ!と・・・・・ラッキー!なんてね(^-^)
そして原発が追い討ちをかけて来る。

    〜〜〜シューベルト?シートベルト?シーベルト〜〜〜(4月7日)

手付かずの書斎をパチリ!
この状態!
雨戸なんか閉めなくてもいい。
このまま、数日が過ぎる。
 カメラを出せた。箪笥は倒れなかったけどこんなにも動いた。上に飾ってあった「藤娘」ケースごと落ち、ケースはガシャン。本体は無傷のようなので、上のものをどかしながら拾おうとしたがそれが動かない??おかしい?一つ一つ全部どかしていったら何と笠のほんのチョビットがこの動いた箪笥に押さえられていたのだ。着物も帯も、私が縫って着せたものだ。もし自分が服の一端でも挟まってしまい、脱げば助かるのに、それが出来ない状況だったらと・・・・・私は急にいとおしく人形を抱き上げてしまう。ビニール袋を被せ籠に入れ動かないよう箪笥に留め、元の通り上に置く。この後、灰とガラスせともの雑貨との格闘!二回目の入浴は和風旅館。みなボランティアだそうだ。夕方から雪がちらつきだす。無料券を貰い、行ってみたら、待たなきゃ入れない。「とんでもない!折角来たのに」とそばの旅館で有料のお湯に行くとそれが驚き!結構泊り客がいる。この時期、何で?それは何と福島からの避難客とのこと。帰り気がついたら 殆ど福島ナンバーの車。イヤハヤお金のある人は違う。
それにしても、コワ〜イ コワ〜イ 原発! テレビはないけれど、ラジオから毎日毎日耳にするのは
「シーベルト!シーベルト!」
そして計画停電のはじまり。那須でも我々被災地は免れた。アタリマエデショウ〜!水が出ない。おまけに停電だなんて、とんでもない!
                                                                       
    〜〜〜〜水が出たぁ〜〜〜〜 (4月8日)
 地震から六日目、17日の午後、やっと水が出た。何たって水。文明だって水のあるところからだもの・・・・・ 世界史の先生の言葉を思い出す。メソポタミヤ文明、チグリス・ユーフラテス。エジプト文明、ナイル川・・・・・ このチグリス・ユーフラテスの言葉に魅力を感じたものだった。とにかく、水が使える!!!作業も出来る。お風呂にも入れる!
狭い納戸はひどいもの。狭いオマケに棚だらけ。先ずは順に手前の物から廊下に出し、やっと足を踏み入ってからの始末。此処でやっと軍手が出て来る。軍手はじめ乾電池など保管場所の再検討、カメラなども玄関に下げておいた方が好いかも、即、持ち出せるように。
夫は、ダイジナダイジナゴ本に かかりっきり・・・・・(私チョッピリ不満)
 
それに見事に崩れた薪!薪!薪!きちんと積んであったのに裏へ廻ることも出来ない。
人間サマの水は来た。今度は車だ。夫の病院の予約が数日後。ガソリンも心配になる。電車は通っていない。予約変更しようか?私は夫に内緒で、ガソリンスタンド経営のレザークラフトの生徒さんに電話。そして翌日お昼過ぎ、彼女からの電話「すぐ、並んで下さい!」「速く行って! レッツゴー! ハバハバ!」夫は約、一時間
程で帰ってきた。一人3千円分。これで無事、病院へ行ける事になった。
町では、避難している那須町民もあるなか、今度は福島の避難民の受け入れが始まる。那須町は広い。けど人口は少ない。今度の地震だって、死者、怪我人、それに火災が起きなかったのと、オマケに【那須】といえば御用邸、湯本の方が軽かったので、津波&原発のカゲにかくれ、余り報道されていないようす。近所でも崩壊の家が何軒かあり、落ち着いてから行って見たのだが、カメラを向けることは出来なかった。「夫婦とも無事です。Y市の息子宅におります。Tel***」の張り紙のある家もあった。我が家が無事でほんとに良かったとしみじみ思う。テレビが壊れたのはチョツッピリ残念だったが、失ったものには意外とさっぱりした気持ちでいるのが不思議なくらい。無くなったからと不自由も感じない。要するに余計なもの、ガラクタだったのかも・・・・                                 
    〜〜〜〜忙中閑あり〜〜〜〜 (4月9日)
 二回目のガソリン補充、これも割り当ての3千円分、30分ほどで受けられ、以後は元に戻った。やれやれ、久しぶり買い物に・・・・・大型スーパーもガランとしたもの。あっても
「お一人さま一個のみ」何でしょうね〜。商品が入ってこないとのこと。大型電気店も売り場がテープで仕切られ、乾電池などは売り切れ、何もかも品不足おまけにどこも照明を控えて昼尚薄暗い。高速も一般車はまだ通行止め、すっきりしたもの。新幹線、在来線共に不通途中立ち往生した新幹線の姿も眺められた。ちょっと野次馬根性、折角だからと帰りはドライブで各地域視察?と・・・瓦屋根、外壁、ブロック塀、一抱えもありそうな石の門柱がゴロン。墓石も随分倒れていた。でも家屋の破損は、我が地区がひどいようす。家の周りでも、我が家の左、2軒置いた3軒目はやられ、右隣の横の空き地の隣の家がやられた。向かいもそうだ。一本、向こうの道の南側の家がお気の毒。ほかにも三軒ほど続いて破損のところもあり、地盤なのか・・・・・本当にお気の毒で前を通るのに気が重くなる。
片付けもいよいよ難関の食器棚。作りつけの方は上半分がガラス戸。皆手前にずって来て壊れたまま戸につっかかっているので一気に開けられない。ガラス戸を少しずつずらせながら脇から手を入れつまみ出し、またずらしてと、戸がはずれなかったのが幸いだった。観音開きだったら、もろに開いてガシャン・・・・・と言うところかも。上の方は尚、大変。とにかく気をつけながら、完全のものもカケラも出し切る。茶箪笥は上が木の戸。やはり引っかかっていて開かない。中が見えないだけややっこしかった。ひとつひとつ、丁寧につまみ出す。
いい天気でした。夫はその頃、薪の片付け積みなおし。私は外で分別処分することにした。「これはOK、これは縁がほんのチョコットだけ、でも危ないダメ!」ごみの方にガチャン!不思議と未練なく、始末していく。ところが翌日、とんだ事になってしまう。                                                 
    〜〜〜不注意に 気の短さと 無鉄砲 
          愚かなり我 じっと手を見る〜〜〜(4月10日)
 別に何て言う事もないこのお皿、ずっと昔?から家で使っていたもの。私はこれが好きで現在まで吾が家庭で使っていた。今回「とうとう一枚になっちゃつた〜残念!」・・・・・と、次に手がけたのが二枚の浅い鉢。「こんなのは割れていいのよ〜・・・いっそこの際、ポツにしよう」そのままポツにすればよかったのに、私は2枚を両手に持ち、カッチンコとしたのだ。鉢は人を小バカにしたように、カッチン!びくともしない。「マッタクこういうのに限って頑固なのよネ〜」もう一度。カッチン! 鉢は申し訳に割れたというか欠けただけ。そして私は・・・・・ その時は何とか、バンドエイトで押さえ作業を続ける。別に何でもなかったので・・・ところが夕飯を済ませた後さあ大変!急に痛くなった。もうだめ。片付けもせず、痛い手をさすりながらベッドに入る。指が熱く腫れてきたのだ。翌朝、病院へ。
病院も計画停電で一部診察時間の変更ありの状態。「ばい菌が入ったのでしょう。レントゲンで異物は無い」とのこと、点滴を受け、ぐるぐると巻かれ、いやはや右手の使えない状態になってしまった。折角お風呂に入れるようになったのに、オマケに左手操作の動作で翌日は見事、柱にオデコをゴッツン!手を冷やしオデコを冷やしての最悪。これも総て、自分の不注意・オッチョコチョイ・無鉄砲・ 横着と、浅はかな自分が情けない。(何故かあの時手袋をしていなかった)恥ずかしい。ドクターにはただ「セトモノのカケラでやった」とだけ話した。みっともなくて事実なんて話せません。五日間で包帯は取れたが、オカシイ??腫れは未だ残っているし、未だ痛い。それにしても悔しくてならない。本当にバカなことをしたものだと、あの鉢が恨めしくさえ思うのだ。  (鉢に八つ当たり)
                                                      
    〜〜〜〜早、ひと月になる丁度その日!〜〜〜〜 (4月11日 )
 地震から早、ひと月になろうとしていた。14時46分、私もラジオに合わせ、しばし目を閉じる。今もテレビなしの生活が続いている。相変わらず続く余震、天災とはいえ自分から招いたようなアホらしい怪我、この一ヶ月に何がおきたのだろう。つい、昨日のような、ずっと昔のような、もしかして夢を見ていたのかもと・・・今、こうしてパソコンの前にいる自分の周辺が、足の踏み場もなく、テレビはじめ本、新聞、リモコン、ティシュペーパーやら置物、etc・・・あのガラクタの山は何だったのかと。そして未だすっきりしない右手。
目を開けた私は、「じっと手を見る」情けない クヤシイ〜 恥ずかしい  アホラシイ〜
そして数時間後、あの強い余震!「潜れ!火!」二人してテーブルに潜る。イヤコワカッタ〜 先日は外で一人だったけど、家にいてもコワ〜イ。外では身体がゆらついた・・・一人だったせいかコワイより夢中だった。テーブルの下では揺れる音、物がぶつかる音、音が怖い。ガタ〜ン、額が揺れる音。落ちた〜「ダイジョウブ?」補強し直した棚は無事でも、積み直し中の本、外の薪は、又一部崩れる始末。
ところが、私が壊れて貰いたくなかった物。本震の時はなんともなかったのに、今回の余震でジャ〜ン!「あ〜ぁ惜しかったなぁ」これと言った思い出があるわけでなく必要なものでもない。ただ好きと言うか失いたくなかったのに〜。
さっきも結構揺れたし、どれだけ揺れたら終わるのょ〜
壊れて欲しくなかったのがこれ。 ネ、ステキデショウ? 
悔しいので補修してみた。前は何とか、後ろがやられているのだ。                                      

    〜〜〜〜改めて地震の凄さを知るなり〜〜〜〜( 4月18日)
「何これっ!」朝、茶箪笥の下に光るものがある。ガラスの細かいカケラ?前回の余震で割れた食器は片付けたのにと、一寸ずらせて見たら吃驚、セトモノのカケラが出てくる。「来て来て!」 どかしてみたら何と、欠けたお皿、薬、新しい巻いた包帯(太さ3センチほど)が袋に入ったままetc・・・・ あの時、倒れず位置が動いた丈だったので元に戻し中を整理したのだった。上の薬箱、乾物の入った容器も落ちて壊れ散らばったものの既に整理済み。おそらく、本震の際に散らばったものがタイミングよく底に入ってしまっていたのだろう。(確かに茶箪笥の底は枠だけで中は空洞になっている)凄い揺れだったのだろう。度重なる余震で微妙に動き、今それが出てきたと言うことなのか。でも、「どうしてこれが、この下に入っちゃうの」??? この際、小さい飾り物は最小限に選択の上箱に収めてしまった。 未練無く、さっぱりしている自分が不思議。この調子で衣類なんかも選択処分出来たらいいのにね〜?給水車から貰ってきた飲料水、20リッター3袋は、昨日、浴槽に空けて使う。大事に大事に使った水。今は水道出しっぱなしで洗面する私って、ダメダナァ〜〜  



    〜〜〜〜静かな春が・・・・・〜〜〜〜( 4月19日)
 自然は素晴らしい!ショウジョウバカマ、カタクリ、雪柳も咲き白樺も芽吹き、これからが一番好い季節。余震の続く中、小学校の桜も今満開。でもそこに児童の姿はない。あの地震以来、校舎は使用されていない。修復なのか補強なのか?1〜3年生は他の小学校に、4〜6年生は中学校の空き教室でそれぞれ授業をしている。総てがいつもと違う春! 梅もあの騒動の中静かに咲いていたっけ・・・ふきのとうも、摘まれることなく花が咲き伸びきってしまった。春蘭もいつのまにか終わっている。地震だけじゃない、原発!今年は山菜もどうか???みなが心配している。 我が家の近所でも、壊れた家の取り壊しや瓦屋根の葺き替えが始まっている。見る限り、瓦は敬遠されているようだ。お隣の石垣も繰り返す余震で、通りに面した石が崩れてき、即修復。今こうしている自分が不思議なくらい。二人とも留守でよかったと、お互い無事であったこと、家も何とも無かったし、停電、一週間の断水ぐらいで、失ったものは必要なものではなかったのだと、ただテレビが無く、NHKの【江】が見られなくて残念!そんなゼイタクなこと言っている自分。それより、津波で一瞬のうちに総てを失った人々のことに、心が痛む。
そして原発、(那須は大丈夫なのかなぁ〜? チョッピリ心配)避難民が安心して我が家に戻れる日は???いつも災害時には義援金を出していたが、「今回は我々だって・・・・・」と思っていた。が、一昨日、夫が買ってきた(文芸春秋)を読み、翌日即、日本赤十字へ送金してきた。お気の毒な人達を思い、自分の幸せをかみしめた次第。途端に涙が出てくる。                                                                                                 
    〜〜〜私の大切なもの・・・って何だろう〜〜〜(4月22日)
 大切なもの・・・・・って何だろう? 命? 生きているから「何だろう?」と考える。死んでしまえば何も無い。じゃぁ、命って何? 生きているってどういうこと? あの時、あの瞬間、自分は死んだのかもしれない。夢中で歩いた道を今、通るとゾットする。崩れたままのブロック、落ちた瓦の山、それにしても良くぞ歩けたものぞと・・・・・ 
        何処へ 何時も我が家へ (ノヴァーリス)
高校の頃からロマンチストだった私、素敵な詩、好きな言葉などよくノートに留めたものだ。
(みだれがき)と書いた古いノートの一頁目に書かれてあるこの言葉   (何処へ 何時も我が家へ)今回の地震は、正にその通りだった。 じゃぁ、我が家が一番大切? house じゃなくhome
楽しい音楽が流れてくる。庭には花が咲いている。洗濯物が干してある。 生活の匂いがする。そして家族がいる。でも、あの時私は「夫は?」とは思わなかった。 ただ、「家はどうなの?」家へ帰りたかった。
大切なものから失いたくないものへと考えたとき、形あるものは壊れる、人間はいつか死ぬ、別れがある。夫ともいつかその時が来るだろう。怪我をして右手が使えなかった時、私はずっと(自分の身体、健康な身体)でいたいと思った。自分が死ぬまで大事にしていたいもの、五体満足な身体かもしれない。
頭がパーになったら死んだも同然だし・・・・・健全な身体なればこそ、夢もあるというもの。
あぁワカラナイ ワカラナイ 人間は考える葦か?
あれ以来、「又来るかも〜」と何するにも集中できず、しようと言う意欲も湧いてこない現時点、私の
カレンダーは、さっぱりしたもの。夫は私より重症?の様子。
いざ!と言うとき、やっぱり女性の方が強いのかなぁ?                                                                                      
    〜〜〜〜リンゴの花ほころび〜〜〜〜(4月28日)
 余震に怯えながらも、半分は慣れっこになってしまう。「今日は無いな?」そんな時、夕方にグラッ! 「それ、お出でなさった〜 」そんな感じだ。夢を見ていたように思うのだ。それが現実であったのだから、「1000年に一度の大地震を体験したんだぞ〜」そんな強がりを言える現在。 そして今は、怖い怖い原発!が心配。那須にも福島からの避難民が多く来ていた。今月いっぱいで皆出て行くことになっている・・・・・戻るのではなく、旅館などに移動するのだ。 二日間、シルバー大OBでボランティアをする。
スポーツセンターに避難していた人達が、出て行ったあとの片付けだ。1000枚以上ある毛布の仕分けレンタルのものは、同じタグで集め、10枚づつ積揃え、一般のものは、程度の良さで上、中、下に分けてダンボール箱に詰める。それに廃棄分。これが非常に多い。ほんとに勿体無い限り。おまけにそれもダンボールに(廃棄分)として詰めるのだから・・・ クリーンステーションがいっぱいなので、取りあえず一時、倉庫に保管しておくとのこと。何処か施設に廻したらと、何か割り切れない思いだ。箱に入れられない敷布団、掛け布団等も、全部仕分けして数枚づつ紐で纏める。私は中一日おいて二日間やったがチカレタビ〜〜〜 でも、「この布団に世話になるより、後片付けしている自分たちの方がどれほど恵まれているか」と、一生懸命やったつもり。又、会場のコーナーには衝立で仕切られた場所が・・・何?そこには寺小屋?とおぼしき児童の机いすが 7つばかり、棚にはお勉強のドリル、お絵かきetc・・・お勉強するの?こんな中、無理でしょうに 廊下には衣類なども置かれ、(大人下着L)とか(M)とか、これらは袋に入ったままの新品。(子供セーター)とか(婦人物**)とか一般からの提供品など、クッキー飲み物もまだそのままにあった。
原発は困ります。 速く何とかして欲しい。一日も速く、我が家へ帰ることが出来るよう願うばかり。
そんな中、今年も リンゴが咲き出した。


    〜〜〜〜困ったお客様〜〜〜〜(5月9日)
 今ではそう呼んでいる。招かれざる客、なのに今ではご常連のお客様、そして不意にお出ましと、マッタク厄介なことこの上なし。「あ〜ら、又来たの?」軽くあしらっちゃう。と言いながらも、ほんとうはドッキン!昨日は早朝から、いつだったかは真夜中、シンデレラじゃないけど0:00頃、慌てて駆けつけて来たのよ〜 もうノーサンキューよ〜 お客様の後片付けも一段落、あとは各職人にお任せ。大工さんは大忙し「大工以外の仕事が多くて・・・ 昨日はピアノの移動まで・・・・・」と話していた。
我が家は幸いにも、外壁のひび数箇所、浴室ほかのタイルが何枚か欠けたり剥がれたり、漆喰が数箇所剥げ落ちたぐらい。一応、役場に(罹災証明書)を申請する。
それよりも身体の方が何だかオカシクナッテ・・・疲れたのかなぁ〜右人差し指は相変わらず朝、むくんで腫れている。痛くはないけど気に入らない。関節をぎゅっと曲げたり指をぐっと押さえると痛い!Dr曰く「あんまり気にするとノイローゼになっちゃうよ〜」ですって・・・・・ 又、左腕というか肩と言うか背中がセーターなど脱ぐときに「ウ〜ン 痛い!」それでも貧乏性の私、家にいるとじっとしておれない。
つい痛い痛い言いながらも手を出してしまう。
出かけよう!思い立って今朝、どうかな?と、蕨の里(私の見つけた場所。勝手にそう呼んでいる)に行く。二握りほど収穫あり。今夜早速おひたしに。放射能は?と思いながらも・・・だって美味しいんだもん〜
田んぼには水が入り、早、田植えの済んだところもあり、そして「山笑う」何時もながらの里山の爽やかな景色!2ヶ月前、地震があったなど嘘みたい。でもそこには事実が・・・・・
鯉のぼりはブルーシートの覆った屋根の上を泳いでいる。
      
    〜〜〜〜そして私は・・・・・・・・・・〜〜〜〜
 途方も無い夢を見た思い。我が家へと歩いたあの時間(10分ぐらいか?)が不思議でならない。
あの時死んだのかも知れない。あの世を通ってきたのかと、あれ以来やたらと死を考えるようになっている。死を現実のものと思えるようになった。今までは(死んだらどうしよう)いや「自分は死なない!」
そんなことを、思っていたのに・・・・・ そして矛盾だらけの世の中。
お役所仕事のじれったさ。加えて自分自身の矛盾した考えにも困ったものだ。どうすればいいの?
身体の方もおかしくなってしまったようだし・・・。不注意からの手の異常、じわじわと迫りくる老いの現象あぁ、もうたくさんだ!余震はいつまで続くのだろうか?           
                                                         2011年5月    エルム記