2月28日から3月3日「横浜ダンスコレクション2002 ロリーナ・ニクラスによる振付家のための構成力養成講座」にのりちゃんと二人で行って来ました。踊りの高みを知る不思議な感動体験をしたのでご報告します。
ご報告に先立って、わたしたち二人が、自分の仕事の教室の指導をほったらかして、でかけることができたのは、フォローに回って下さった、美津子先生と景子先生のおかげであり、また、結局レッスン一回を減らすことになっても、文句も言わずに送り出してくれた、西神中央教室と桂木教室のみなさんのおかげです。それから、この文章は管理人氏によってアップされております。ありがとうございました。
さて、本題に入ります。この講座は4日間行われ、参加した振付家がまず一日目に自分の創っていった作品を発表することから始まります。そこで、ロリーナさんに講評していただいて、その後二日間にわたって講義を受け、講義内容を参考にしながら、作品を創り直し四日目に再び発表するという、内容のものです。
のりちゃんと私、お互いに自分の作品を二人で踊る、という結構ハードなものだったのですが、彼女の作品についてはのりちゃんが自分で報告すると思いますので、自分の作品についてのみ、報告します。
1日目。作品発表。私の作品「現在 使われておりません が」は散々でした。踊りそのものはまあよく踊ったかな、という感じだったのですが、ロリーナさんは「全然分からないし、何の感動もないし、話すこともない」ということでした。その前に他の振付家とはかなり長い間、議論しているのを聞いていたので、「へ?」と言う感じでした。あげくのはてに「あなたは若いしきれいんだから(!彼女が本当に言った。英語でそう聞けたから通訳の人のなぐさめではない。しかし彼女のなぐさめである)まだ先があるでしょ。出直しておいで−」と、私は追っ払われてしまったのです。
ディスカッションもできないような作品なの?なんということ!こんなことで、4日目の舞台にたてるのかな、と暗い気持ちでした。暗くなってはいたのですが、私にはひそかに、秘密兵器がありました。林先生です。
林先生とは、研究所の人生指南役(癒しのプロというか。癒し系ではない、念のため)のような人ですが、見た目は若いお兄さんです。加勢大周に似ています(景子先生は、石井竜也といいます)。
「踊りどうしたらいいか分からないよ〜」と泣きついたところ、先生はいろいろと、私の作品をどう変えればいいのか、言葉を尽くして言って下さいました。先生の言葉は順に紹介していきます。
2日目3日目。講義を受けながら作品の手直し作業です。講義そのものは、絵画の分析や、映画で光や音がどのように効果的に使われているか、などとても興味深いものでした。が、“踊りどうしよう〜”というひっかかりがどうしてもありました。参加者は皆、そうだったと思います。別の機会があれば講義のこともまとめてみようと思っています。
同時進行で作品の手直し作業。まずは、壊れたプライドの立て直し。“私の作品は決して悪い作品ではない”このことについて自分でも不思議とそう疑うこともなく、のりちゃんも「いい作品やと思う」と言ってくれた言葉を盾に、とにかく、プライドを立て直しました(そうしないと先に進めないでしょ?)。
では何故、ロリーナさんに伝わらなかったのか。いろいろ考えて、この作品には、なにかパズルで言うなら重要なピースが欠けているのではないか、だから伝わらないのではないか、と考えました。では、そのピースとは何か。そして出した結論は(これは今だから言える言葉で、そのときは具体的にこういう言葉としては認識していなかったのですが)“あ、魂が欠けてる”、ということでした。後になって考えて、欠けていた訳ではないのですが、この作品の魂がどういうものか、はっきりわかっていなかったため、作品をどこに導いて行くのか、自分で分かっていなかったのです。でも作品というものは、前提条件として作品の魂を明確にしなくてはなりません。
これはロリーナさんの講義の中で聞いた言葉と林先生の言葉によって、導かれた結論で
す。まずは、ロリーナさんの講義から。
「表現者にとって自分自身の中にある真実のみが作品のエモーションでなければならない」 自分自身の中にある真実こそが作品の魂に到達できるのです。魂から出ているのでない踊りは、どうしたって人には伝わりません。そのためには、自分自身の中にある真実を探りだし、魂にまっすぐに向かって行かなければなりません。
そして、何度にも分けて語られた林先生の言葉。「佳代先生のようにね。踊りとは、言語になる前のコミュニケーション。ゼリーのようにやさしい色と透明感、柔軟なる固さ。神聖な原始の表現。作品は素直に創りましょう」です。今、その意味が少しは分かります。
作品はゼリー、なんです。例えば中心に果物が入ったゼリー。一日目の私の作品は、ゼラチンが溶けて、中心の果物がはみ出した状態、だったのではないかと思います。果物はあったと思うのですが、どういうものかよく分からず、いい加減に固めた、と言えば一番びったりでしょうか。
中心の果物とはもちろん、作品の魂です。作品は柔らかく固められた魂が、やさしく透けてみえるべきなんです。
それから、神聖な原始の表現。佳代先生はいつも舞台に祭壇を築きます(実際の装置とかそんなのではなく)。踊りとは、言語になる(これが大事)前のコミュニケーション、そして素直に作品のタイトル「現在 使われておりません が」を考えたとき、この作品は過去に使われていたものへの葬送なのだ、と分かりました。
“葬送とそれでも存在している私”これこそが、柔らかく固められるべき、今回の作品の魂でした。このことが自分の中で明確になっていなかったのです。
自分の作品で、作品創っておいて、何故気づかない、と思われることでしょう。私もそう思います。それまでの作品はタイトルをひねくり回し過ぎて、あっちこっちと寄り道をして迷子になっていたのです。まっすぐに素直に、主題を考えればよかったことなのに。
振付家はまっすぐに自分自身の真実でもって作品の魂に到達せよ!
振付家はもしかしたら、巫女のようなものかもしれません。何か大きな力が、私を媒体として踊りを創らせてくれているのだとしたら(だって、気づいてなかったのに、作品はあったもんで)・・・さっさと大事なことに気イつかんか〜と思われていたかも。いや、これってうぬぼれですよね?かえって。
作品は、振りそのものはたいして変えませんでした。ただ、すべての動きが、葬送につながるようにもっていき、そして、存在している自分を自分の中で明確にしました。それでも実は直前まで、うだうだと迷っていましたが(やっぱりこうしようかな〜という言葉にのりちゃんは脅えたことでしょう)、舞台上では何故か自信たっぶりとふっきれました。
表面上は、ほとんど変わってはいない作品でしたが、ロリーナさんはやはり内面的に変化した部分をきちんと観て下さって、4日日、とてもよい評価をしていただきました。
そして分かったこと。人の心を動かすのは作品に込められた魂だけなんです。魂に到達するのは自分自身の中にある真実のみなのです。魂を伴わない表現の形態や技術に人は感動しません。
“表現”に古いも新しいもないんです。真にインターナショナルなものは真にローカルなもの、もっと言うなら個人的なもの。魂から出たもののみが、人の魂に伝わる−このことは信じていいのです。信じていい、と確信できたことは、私の一生の財産です。私の踊りの手直し作業とは、自分の作品の魂を明確にし、魂を込めていく作業だったのです。
これはもちろんロリーナさんと林先生のおかげであり、私の背骨に踊りのバックグラウンドをたたき込んでくれていた、佳代先生のおかげです。
“作品の魂を明確にし、作品に魂を込める”言葉にすれば、当たり前のこと、表現者であるなら当然のこと。それが、踊りを創るということ。こんな肝心なことを欠落させていたなんて!
迷子の状態から道をつけてもらった、不思議なすごい体験でした。にもかかわらず忘れる癖のある私なので、このことは無理やり書き付けて、報告させていただきます。
絶対忘れないように!!一生忘れないように!!!
今回のこの講座、学んだことはとてつもなく大きくとてもありがたいことだったのですが、それ以外にもたくさんの人と知り合えました。とてもうれしいです。どうぞこれからもよろしく。
だれに言っていいか分からないので、どこかにいる神様、本当にありがとうございまし
た。
菊本千永
ロリーナ・ニクラスによる「振付家のための構成力養成講座」に菊本千永さんと参加してきました。その感想などを遅ればせながら報告したいと思います。
とにかく楽しかった。何が楽しいって これだけ真剣に集中して踊りのことをかんがえる時間を持てたということが。
今回発表した作品は 2月23日の「創作実験劇場」で踊った ぬりえの旅 を2人踊りに創り直したものです。
まず初日に作品を公開しました。その結果は無惨なものでした。
ロリーナさんはこう言いました。「おもしろかったのは最初の5分だけです。あとは化石のような動きがあるだけです。空間をも踊りにしなければ・・・」
もっと微妙な動きも大切にしなければとも言われました。
そうなんです!
このことはすでに佳代先生からも何回も言われていることなんです。
私が踊るときも 創るときもここ神戸で常に言われていることなのです。
特に新しいことを言われたわけではありませんが、今まではこれでいいんだと変に開き直り、深く反省もせずに蓋をしてきた部分なのです。
そこで千永ちゃんに協力してもらい ほとんど寝ずに考えました。この作品を動きではなく踊りにするために。
具体的に指摘された部分から手を着けていきました。化石のような動きは取り除いて元々ある動きを使って埋めていきました。自分たちが踊っていて感じのいい部分をもっと長く丁寧に踊ってみたり。
そしてもう一度 ぬりえの旅 について考えました。人と人との関係はぬりえを塗るように丁寧に埋めていく作業が大事なのではないか。埋まるかどうかわからないからその作業の旅は続いていくのではないか、と。
派手に足をあげたり、動き回ったりする化石のような動きの羅列はやめて せっかく見つけた微妙なディテールをもっとゆっくりと大事に踊ることによって 踊りながらでも作品の落ち着き先が少し見えたような気がしました。
最終日、ロリーナさんとお客様の前でもう一度踊りました。
「最初に言っておきます。私はこの作品が好きです。」
ロリーナさんはそう言ってくれました。そして宿題も出されました。千永ちゃんはできているが、あなたは客席とのコンタクトが取れていない。空間全体を巻き込まなければ、と。
出発する前日に、景子先生から言われたことと全く同じことをここでも言われちゃいました!そのときもこれでいいんです、と開き直りました。あー先生 ごめんなさい!
私の今回の旅は反省の連続です。
最後になりましたが、佳代先生、先生方、講座に関わるみなさま、ありがとうございました。少しでもよい舞台をと助けてくださったスタッフのみなさまありがとうございました。
千永ちゃんまた助けてくださいね。
かじのり子
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