キキ
地方の駅のホームは、夜9時の列車ともなると人はまばらだった。私たちにとってはむしろその方がちょうどいい。ゆっくりと二人の別れの会話をすることができる。今日は楽しいひと時を過ごせたけれど、彼は明日の朝には東京へ戻らなければならない。
やがて列車が来て、私たちの会話は中断された。
列車に乗り込むと、彼は私の方に向き直りすまなそうに言った。
「しばらく仕事が立て込んでるんだ。今度の週末には会えないよ」
「忙しいんだもの、しかたないわ」
そう言って私は笑顔を浮かべて見せた。事実彼は忙しい。葉山コンツェルンの名は誰でも聞いたことがあるだろう。その総帥が彼の父親に他ならない。彼自身も三つの会社を任されていて、分刻みのスケジュールの中で生きている。唯一そこから解放される機会が私と会うこのひと時だ。彼の名は葉山純、私の婚約者だ。
私はといえば、彼と比べたらごくごく平凡な田舎娘に過ぎない。父親はサラリーマンで母親は専業主婦。とりたてて言うこともないほど平穏に、幼い日々は目の前を通り過ぎて行った。地方の高校ではそれなりに成績が良く、東京の名の知れた大学を卒業できたものの、就職はそううまくいかず、故郷に帰り地元の不動産屋の事務員にひっかかって、かろうじて家事手伝いと呼ばれるのを免れた。何事もなければ、そのままお見合いでもしてあくまでも平凡な人生を全うしていただろう。
しかし彼と出会ってしまった。
彼の会社のひとつが郊外に支店を出すことを計画して、目当ての土地を管理していたのが私の勤める不動産屋だった。彼が社長と商談を始めたので、私がいつものようにお茶を入れた。テーブルに彼のお茶を置いた瞬間に目が合った。彼のほうからの一目惚れだった。
その日から一週間後、彼は今度はプライベートで私に会いに来たのだ。
まるで絵に書いたようなシンデレラストーリー。自分でもいまだに夢かと思うときがある。しかし来月には結婚式を迎えることも含めて、全てが現実のことだ。
彼の両親が婚前の同棲に頑なに反対しているため、私は今までの暮らしを続けながら週末にだけ彼と会っている。
発車のベルが鳴った。
彼はちょっと憎らしそうに、音を立てるスピーカーを睨んだ。しかし私の方に向き直ったときには笑顔だった。
「電話はできるだけするよ」
彼は言った。私が返事をする前に、列車の扉が閉じた。私は口の形を大げさにして「待ってる」と言った。彼はガラス越しに大きくうなずき、同時に列車が動き出した。思わずつられて列車に合わせて歩き出そうとしたが、さすがに周囲の目が気になって踏みとどまった。彼を愛してるとはいえ、周りが見えなくなるほど若くはない。そんな自分を省みて少し寂しく思った。
列車が見えなくなるまでは見送った。それから彼のぬくもりをもう一度思い出して、改札口の方へ向かうためにきびすを返した。
目の前に白いものがあって、危うくぶつかりそうになった。
体勢を立て直してぶつかりそうになったものを見ると、それは一人の少女だった。美少女と言ってもいい。まだ中学生くらいだろうか。いまどき珍しい漆黒の髪をストレートに肩まで垂らし、かわいいというより整った顔立ちをしている。印象的なのはその大きな瞳と、口紅を塗っているようには見えないのにとても鮮やかな赤い唇だった。目立った装飾のない古めかしい形の白いワンピースを着ており、さっきはそれだけが認識できたということのようだ。ファッションだけ見れば野暮ったいと言えるだろう。けれど彼女の身を包む、清純さ以外のなんとも言いようのない雰囲気が、妙に白いワンピースに馴染んでいた。その雰囲気はなぜか私を不安にさせた。
「ごめんなさい。あなたが後ろにいるの気がつかなっかったものだから」
私は言った。少女は笑顔を浮かべた。とても魅力的な笑顔であったが、何かが心に引っかかる。その何かは、私を惹きつけると同時に空恐ろしくもあった。
馬鹿馬鹿しい。私はさっきから何を気にしているのだ。目の前にいるのは普通の女の子にすぎない。私は心のもやもやを振り払った。ぶつかりそうになったことを謝り、この場から立ち去れば彼女とはもう会うこともないだろう。この子がどんな女の子だろうと関係ない。
「大丈夫だった?」
転んでもいないし、怪我はなさそうだが一応聞いてみた。
「ほんとにぶつかったわけじゃないし、もちろん大丈夫よ。ただ少しびっくりしたかな。心配してくれてありがとう」
澄んだ鈴のような声だった。
「お姉さん優しいのね。わたしの名前はキキ。お姉さんは?」
「私? 私は香山かつみ」
ほとんど反射的に答えてしまった。
「かつみさんね。じゃあお近づきのしるしにひとつ教えてあげるね。あの男の人とは別れたほうがいいわ」
「え?」
一瞬誰のことを言われたのか分からなかった。ようやく葉山さんのことに思い至ったときには、彼女はもう背中を向けて歩き出していた。私は後を追った。
「どういうことよ?」
ゆっくり歩いているように見えるのに、私はぜんぜん彼女に追いつけなかった。
「ちゃんと教えてあげたからね」
背中を向けたままそう言って、彼女は改札口の向こうに消えた。私はなおも追おうとしたが、自動改札に阻まれた。うっかり入場券を入れるのを忘れていた。彼女はどうして通り過ぎることが出来たのだろう。切符も定期も持っていたようには見えなかったのに。きちんと入場券を入れて改札口を出たころには、もう彼女の姿は影も形もなかった。
キキという少女が言った言葉が心に引っかかり、その日は眠れなかった。一番単純かつ前向きに考えれば、キキは大嘘つきで、初めて会った人間にも面白半分に意地の悪い冗談を言うということになるだろう。第一、キキという名前すら本名とは思えない。日本人にはちょっと聞かない名前だ。
しかしもしやという疑いが頭を持ち上げてくる。彼には他に付き合っている人でもいるのだろうか。彼の立場を考えれば、周囲に群がってくる女性は山ほどいるだろう。その中には当然、私より彼にふさわしい境遇の女性もいるに違いない。まさかキキがその相手、などということはないだろうが。こんなことを考えるのも、私が葉山さん――というより葉山さんとの結婚を現実のものと信じきれないからかもしれない。
翌日には葉山さんから電話が入ったけれど、キキの言葉を問いただすことはできなかった。
葉山さんの言葉通り、その週末は会えなかった。電話のやりとりはしていたが、彼は特に忙しいらしくとても短いものだった。再び会おうという電話があったのは、週が明けてからだった。土日は仕事が休めるから、彼の知り合いのやっているペンションでずっと一緒に過ごそうということだった。そのころにはキキの言葉もたちの悪いジョークと割り切ることができていたし、葉山さんに会いたい気持ちも募っていたので、もちろん私は承諾した。
FAXで送られた地図を片手に、私はペンションへ車を走らせた。葉山さんは仕事の関係で反対方向から来るので、現地で合流することになっていた。できれば二人でドライブも楽しみたかったが、あまり贅沢は言えない。
目的のペンションはずいぶんと山奥にあり、着くのに時間がかかったが、それでも私の方が先だった。葉山さんの名前を告げると無愛想なオーナーがとても客商売とは思えない乱暴な態度で鍵を差し出した。部屋まで案内すらしようとしない。さすがに不愉快になった。
葉山さんときたら、よりによってどうしてこんなペンションを選んだんだろう。オーナーとは知り合いとは言っていたが、葉山さんならいくらでもいいペンションを知っているだろうに。
指示された部屋に入ると乱暴に荷物を投げ出した。2、3悪態をつくと、少しは気分が収まった。とりあえず部屋を見渡す。部屋はかなり広く、家具のセンスがなかなかいい。窓から見える山並みの雄大さにも驚かされた。オーナーの態度とは違って部屋は十分に合格だ。別にオーナーと過ごすわけでもないし、葉山さんの選択に不満を漏らした自分が恥ずかしくなった。
最後に寝室を確認したころには私の機嫌は完全に直っていた。きちんとベッドメイキングされたふかふかのベッドに座って彼の携帯に電話をかけた。
留守録の声が電話に出られない旨を告げた。もちろんここへ向かう車を運転しているのだろう。私の方も長時間の運転で疲れた。このまま少し休ませてもらおう。
私はすぐに眠りに落ちた。
どのくらいたっただろう。物音で目を覚ました。
ベッドの傍らに葉山さんが佇んでいた。
「あ、来てたんだ」
私は慌てて上半身を起こした。
「ごめんなさい。少し眠っていたわ。いつ来たの?」
「着いたばかりさ。こっちこそごめん。遅くなってしまって」
笑顔で葉山さんはそう言った。
「いいのよ。忙しいんだもの」
私がそう言うと、彼は真顔になった。
「いつも俺は君にそう言わせてしまってるね。ずっと君を待たせるばかりで本当にすまないと思ってる。でもきちんと結婚式をあげれば、もっとずっと一緒にいられるよ。まったく、うちの親は考え方が古いんだから。俺のほうはすぐにでも君と一緒に住みたいくらいなんだけれど」
「ご両親にはご両親の考え方があるのよ。不満には思ってないわ。そんな風にまじめなご両親なら、私もむしろ安心できるし」
「まじめというより思考が硬直してるんだと思うよ。でも君がいいって言うなら、俺ももう少し我慢しようか。
さて、君が眠っている間にカクテルを用意したよ。とりあえず乾杯しよう」
今まで気づかなかったが、サイドテーブルには鮮やかな青い飲み物が入ったグラスが二つ置いてあった。彼は私にそのうち一つを手渡して、もうひとつを自分で取った。そのまま私が座っているベッドに腰を下ろした。
「ここで飲むの?」
「いいじゃないか。俺たち婚約してるんだもの。結婚すれば俺たちが一緒にいるのもあくまでも日常の一こまになる。それを考えれば、あえてあまり気取らない場所でグラスを傾けるっていうのもありだと思うよ」
「そうかなぁ。それってどういうセンス? でも、試してみる価値はありそうね」
「そうそう。なにごともチャレンジだよ。それじゃあ乾杯」
「乾杯」
私たちはグラスを合わせた。
「お姉さん、それは飲まないほうがいいわよ」
まさにグラスを口につけようとしたとき、聞き覚えのある声が私たちの動きを止めた。
「だれだ?」
葉山さんが叫んだ。
「私はキキ」
戸口に立っていたのは、確かにあの時の少女だ。あの時と変わらず白いワンピース姿だった。奇妙な雰囲気もあの時のままだ。私はつばを飲み込んだ。隣で葉山さんもつばを飲み込む音がした。
「お姉さん、それを飲むとね、さっきとは違ってちょっとやそっとでは目が覚めないほど眠くなるの。準備が終わるまで寝ているように」
キキは私たちに近づいてきた。
「なんの準備なの?」
私が問いただすと、葉山さんが私のほうを見た。
「君の知り合いなのか?」
私はちょっと返答に窮した。その間にキキが私の方の問いに答えた。
「お姉さんを殺す準備。この人ね、人を殺すのが大好きなの。それも、自分を好きになってくれた人を幸福の絶頂で裏切って殺すのが。さつじんいんらくしょうっていうんだっけ? キャハッ、わたし漢字で書けないや」
キキは本当におかしそうに笑った。葉山さんの方を見ると、彼は真っ青になっていた。
「でたらめだ!」
葉山さんはキキに掴みかかろうとしたがキキは軽くかわす。
「でたらめだって言うなら、地下室にある包丁とか鋸とかは何なのかしら。とても日常で使うようなものではなかったわ。それからそのビデオ」
キキがベッドの傍らのビデオを指差すと、テレビとビデオの電源が勝手に入り、いきなり凄惨な場面を映し出し始めた。若い女性が手術台のようなベッドに縛り付けられ、血まみれになっている。その傍らには凶器をもった葉山さんが立っており、私が今まで見たことのない、神経を逆なでするような邪悪な笑顔を浮かべている。
私はグラスを取り落とし、目を背けた。目を背けても音は聞こえてくる。私はすがるような目でキキを見た。キキが手を下ろすと音は消えた。ビデオが止まったようだ。
「あの女性はお姉さんの前に婚約者だった人よ。この人はもうずっとこんなことを繰り返してきたの。お金にものを言わせてみんなもみ消してきたけれど。今度はお姉さんの番というわけ」
葉山さん――いや、葉山はポケットからナイフを取り出しキキに飛び掛った。今度はキキはよけなかったが、目にも留まらない動きで葉山の手首を取り、ひねった。ろくに力を入れているようには見えないのに、葉山の顔が苦痛に歪んだ。
「お姉さん、知ってる? 人間てねぇ、悪いことをすればするほど食べたときにおいしくなるのよ。この人かなり悪い人だから、すごくおいしいと思うわ。この人にずっと協力してたこのペンションのオーナーもすごくおいしくて、オードブルとしては十分だったし」
ここに来た時に私が腹をたてた男の、不機嫌な顔を思い出した。
「この人はもっともっと悪いから、味もずっと上だと思うな。想像しただけでよだれが出ちゃう。ちょっと隣でごちそうになってくるわね」
そう言うとキキは葉山を隣の部屋に引っ張っていった。もちろん葉山は目いっぱい暴れたが、キキの外見からは想像もつかない力に押さえつけられ、その抵抗もまったくの無駄だった。結局、キキは葉山を引きずるようにしてドアの向こうに消えた。
私はといえば、状況のあまりの異常さに頭がついていけずただ呆然としていた。
やがて隣から音が聞こえてきた。何がそういう音を立てているのかあえて想像したくないような、ぼりぼり、くちゃくちゃ、がりがり、ぴちゃぴちゃというような音が。ときおりキキの「おいしい、おいしい」という恍惚とした声が間に入る。
音がやんで少しするとキキが戻ってきた。白かったワンピースは黒みがかった赤い液体が染み込んでおり、生地の軽やかさは失われ重そうだった。
「想像以上においしかったわ。わたしが知っていたほかにも、いろいろ悪いことをしていたのかもしれないわね」
私はただキキを見つめていただけだった。
「あの人のような人殺しとはいえ、それを食べてしまうわたしはもっと悪いと思わない? お姉さんを助けたのも、決してわたしが正義の味方だからというわけじゃないのよ。お姉さんは優しいから、食べてもまずいっていうそれだけのこと。誤解しないでね」
なんの反応もできない私に、キキは驚くほど魅力的な笑顔を浮かべて見せた。
「わたしの夢を教えてあげましょうか? これからもこうしておいしい悪者をどんどん食べていけば、わたしもどんどん悪者になると思わない? そうしたら、わたし自身もどんどんおいしくなっていくわ。いずれはわたし、自分自身を食べるの。わたし、そのときはすっごくおいしくなっていると思うわ。さっき食べたお姉さんの婚約者なんか比べものにならないほどにね。きっと至高の味だわ。今からそれを楽しみにしてるの」
彼女は少し考え込んだ。
「そうなったら少しはお姉さんに分けてあげるのもいいかなぁと思ったけど、やっぱり食べる量が減ったら物足りなくなっちゃうわね。独り占めするけど、悪く思わないでね。
ううん、違うわ。どんどん悪く思ってね。きっとこれでまたわたしおいしくなったわ。それじゃあさようなら」
彼女は部屋を出ようとして足を止めた。
「いっけない、忘れるところだった。こんな血まみれじゃあ外を歩けないわね」
彼女が言い終わるや否や、ワンピースの色がすうっと白くなっていった。まるでワンピース自体が血を啜ってしまったかのように。
「今度こそ本当にさようならね」
手を振って彼女は部屋を出て行った。
あれから3ヶ月たった。彼の行方不明は政財界に大きな波紋をもたらしたようだが、もう私には関係ない世界の話だ。警察は私のところにも来たが、「ペンションで別れた、彼はペンションに残ってその後は知らない」で押し通した。私が疑われているのかも知れないが、とりあえずその後警察は来ていない。
そもそも彼の消えた部屋には、骨のかけらも血の一滴も残っていなかった。死体が見つからない以上、あくまでも行方不明として捜査しているだけなのかもしれない。
あの日キキが去ってしばらくして我に返ると、自分の荷物だけ持って大慌てで逃げ出してきたので、ペンションに残っていた凶器やビデオがどうなったのかは分からない。ひょっとしたら警察が調べる前に、葉山コンツェルンがすべて処分したのかも知れない。
いずれにしろ、今私は元のとおりごく平凡に暮らしている。葉山とのこともすでに思い出すことがなくなっているが、最近無性にキキのことを思い出す。
キキ――鬼姫とでも書くのだろうか、彼女の正体は分からないが、今でもどこかで悪人を食べ続けているのだろう。彼女の言葉が真実であるなら、今頃彼女はあの時よりもっとおいしそうになっているに違いない。最初に会った時から感じていた彼女がまとう奇妙な雰囲気、あまり場違いなので自分でも理解できなかったが、「おいしそう」な感じだったのだ。
私は、思わずこぼれた口元のよだれを拭った。