月姫の恋
美姫は、もう1時間も鏡の前に立っていた。思い切って買ってしまったカラフルなスーツ、自分では結構似合ってるかと思うけれど、これから会う相手はシックな方が好みだった。けれど今日みたいな日にはやっぱり、少しくらい目立ちたい。相手に合わせるか自分の趣味でいくか、さっきからそれを悩んでいたのだ。
やっと決心がついた。
(あいつも少しは女の子のわがままに付き合うことを学ばないとね)
着替え終わった頃、タイミング良くチャイムがなった。自然にこぼれた笑顔に気づきもせずに玄関に向かった。いちいち覗き窓で確認するのももどかしかったが、アパートでの女の独り暮らしでは、それも半ば習慣と化していた。間違いなく「彼」だ。扉を開けると、その向こうにいた男はあらぬ方を見ていた。その理由は美姫にはすぐ分かった。背広姿を初めて見た。 完全に背広に着られていたし、本人にもそれは分かっているらしい。
堪え切れず美姫は笑い声をあげた。
「やっぱり、変か」
相手はため息を漏らす。
「ごめんなさい。でも悪いのはあなたの態度よ。もっと堂々として、俺に背広はよく似合うんだぞ、ていう感じでいなきゃあ」
「それがいちばん無理なんだって」
「今日くらいそうしててよ。初めての本格的なデートなんだから」
「デート」という言葉は男をたじろがせたけれど、なんとか気を取り直した。
「とにかく行こうか。予約の時間もあるし」
「そうね」
二人は歩き出した。手を取ろうかどうしようか躊躇している男の手に、美姫は自分から腕を絡ませた。ふっとこっちを見る男に美姫はとびきりの笑顔を見せる。男の顔もそれにはほころんだ。
「負けたよ。今日はなるべく君のご期待に添えるようにするよ。だけど、ぼろが出ても許してくれよ」
「わかってるわ。無理な要求をしているってことは」
「おいおい、どういう意味だ」
美姫の笑顔がいたずらっぽいものに変わった。それから真顔になって、
「冗談よ。こうしていられるだけで、私は…」
後は言葉にできなかった。美姫は自分の考えに沈み込んだ。
こんな日がくるとは思わなかった。自分が誰かに、人間に恋してしまうなんて。
そう、彼女は人間ではない。日本人なら誰でもあらすじくらいは知っている竹取物語に、彼女は現れる。美姫の正体は他ならぬかぐや姫だった。子どもが欲しいという老夫婦の想いから生まれた妖怪、それが彼女だ。
竹取物語はだいたい真実を語っている。
竹取の翁とおうなのもとへ行ったのは、生まれてすぐのことだった。彼女は二人を幸せにすることだけが望みだったけれど、彼女の妖怪としての力が騒ぎをおこし、月からの迎えなどという嘘をついて二人のもとから離れなければならなかった。次からは自分の力を抑えることに細心の注意を払うようになったから、何人もの老夫婦を幸せにすることができた。今まではそれだけで彼女は幸せだった。
けれど、「彼」に出会ってしまった。
男なんてむしろ邪魔だと思っていた。その気になれば、彼女は妖怪としての能力で男を魅了することができた。困ったことにその力は彼女自身にもコントロールしきれず、魅了された貴族たちの騒ぎは竹取物語のとおりだ。そんな時の男は、本来の容姿に関係なく、彼女には醜いとしか思えなかった。まあ自分の妖力のせいなのだから、あまり責めることはできないが。
「彼」と最初に出会ったのは大学の合コンでのことだ。例の暴走する能力があるから、こういう席にはあまり出席したことはなかったが、急に一人が欠けたということで、人数合わせに駆り出されたのだ。もちろん断ったけれど、強引に引っ張られてしまった。慣れない合コンの席で、彼女はひたすら早く帰れることを望んでいた。
ふっとひとりの男性が目に留まった。なぜかというと、彼の様子が彼女自身と同じだったからだ。場違いな所へ来てしまった、そんな落着かなげな様子で彼は座っていた。その時は思わず笑ってしまった。
次に街で「彼」と偶然出会ったとき、美姫は思い切って声をかけた。最初は戸惑い気味だったが、打ち解けた「彼」は不思議な魅力に溢れていた。どういうことかと、うまく説明はできない。けれどたったひとつはっきりと気が付いたことは、彼といるのが楽しいということだ。
それからよく会うようになった。美姫からの誘いにはのったけれど、彼自身からの誘いはあまりなく、あったとしてもちょっとムードに欠ける。けれど会えば会うほど彼に夢中になっていった。彼が苦手なのは表現することだけ。彼の愛情は美姫を優しく包んでいた。
ある日突然の悲報が届いた。自分を育ててくれた養父母が交通事故で死んだのだ。養父母はとても優しかった。もちろん美姫の方もできる限りの愛情をもって応えてきた。そんな関係だったから、美姫の長い一生の中でなんども繰り返されたこととはいえ、悲しみは少しも軽くなりはしなかった。
養父母は有名な私立高校の理事で、通夜の席には多くの人々が訪れた。その対応に追われながらも、美姫はこれからのことを考えていた。
いつもなら、役目を終えた美姫は子どものいない老夫婦が必要とするまで、眠りについた。けれど今回は事情が違っていた。どうしても別れたくない人が残っている。
美姫の決断は早かった。自分が妖怪であることを告白しよう。もし「彼」が自分を拒んだら、もうここにいる必要はない。もしそうでなかったら……。
その時の美姫には考えるだけ虚しい望みだった。「彼」と会うときはいつも、自分の正体など考えたこともなかった。「彼」と一緒にいることは、あまりにも自然でありすぎた。そう感じさせることこそが「彼」の魅力であったのかもしれない。
けれど、きっとそれは「彼」が真実を知らなかったから。真実を知っても同じように振る舞ってくれるだろうか。他ならぬ「彼」の目に、恐怖や不安の対象として自分が映ることを耐えられるだろうか。
勇気を出して告白したが、彼は驚きすらしなかった。美姫は拍子抜けしてしまった。
「私が妖怪でもあなた平気なの?」
思わずそう聞いてしまったほどだ。
「関係ないじゃん。美姫は美姫だろ」
美姫が自分の正体を気にしているのがまったく理解できないかのような、心底不思議そうな口調だった。
美姫は嬉しさの涙を堪えられなかった。その涙の方が、よっぽど「彼」を戸惑わせた。
それからも相変わらず、「彼」のデートコースの選択は味気ないものだった。とうとう我慢できなくて、どこか素敵な所へ連れてってくれるように頼んでしまった。「彼」は結構悩んだようだ。ようやく一週間後、海の見えるホテルの最上階で超豪華ディナーツアーを企画してきた。
どうしてそう極端なのとつっこんでみせたけれど、内心は結構嬉しかった。
食事が終わってホテルを出ると、二人の足はなんとなく人気のない方へ向かった。
海辺に来て、二人だけになったと思われたころ、背後から声がかかった。
「ありがとよ。自分たちから人気のないところへ来てくれて」
二人は振り向いた。
一目でやくざとわかる男が立っていた。背広を着て一応は教養を持っているタイプではなく、むしろ下っ端の、薄汚い下請けの仕事をやってそうな奴だ。
頼もしく見える姿が、自然に美姫と男の間に入った。
「誰だ!」
「彼」が聞いた。
「名乗ってもわからねえさ。けれど何をやったかは教えてやらあ。そこのきれいな姉ちゃんの家族を殺した男さ」
男は笑っていた。それも、目を背けたいほど邪悪に……。
男は問われるままに自分のしたことを話した。美姫の祖父母の持つ土地を中田組が狙って、祖父母を殺すように命じたのだ。男は命令を実行した。土地は遺言で学園に寄付されることになっていたが、中田組の息のかかった次の理事長がそれをすぐに売ってしまった。
男の仕事は終わっていた。けれど、中田組からもらった資料に美姫の顔写真も加わっていて、追加の報酬を独断で求めてきたのだ。
男はナイフを取り出した。大きなサバイバルナイフだ。
「あんちゃんはどいてな。けれど逃げるなよ。逃げたらこの女を殺す。なあに、安心しな。俺の用が終わったら無事に帰してやるよ」
男自身、自分の言葉が信用されるとは思っていないかのような口調だった。ナイフを前に出し、一歩二人に近寄った。
二人は一歩下がった。
美姫は迷っていた。妖術を使えば逃げることはたやすい。けれど、使うにはためらいがあった。「彼」にはあの時以来自分の力を見せていない。正体を告白はしたけれど、それでも「彼」の前で力を使うには勇気が必要だった。
けれど、勇気を奮い起こす時間は与えられなかった。
男がぶつかってきたが、「彼」は避けなかった。あまり聞きたくない音がした。男が離れると、「彼」は腹をおさえてくずおれた。
美姫が起こった出来事を理解するのに、一瞬の空白を要した。美姫は「彼」の上にかがみこんだ。
「どうして?どうして避けなかったの」
「彼」はうっすらと目を開いた。
「なぜって、決まってるじゃないか。惚れた女を守らなくて、どうする」
「わたしは……」
再びためらいが彼女を襲ったが、今度は勇気を奮い起こすのに時間はかからなかった。
「私は妖怪なのよ。ナイフで刺されるくらいなんでもないのよ!」
「そんなの、関係ないよ」
それが最後の言葉だった。その言葉は美姫の胸を直撃した。美姫は二人のやり取りを不思議そうに見ていた男の方をにらんだ。男は口を開きかけたが、開ききる前に異質な力が彼を襲った。彼はしゃがみこみ、胎児のように丸くなった。月の狂気をもたらす力が最大限に発揮され、彼の精神は失われていた。
美姫は再び「彼」の方に向き直り、ある力を解放した。たった一度だけしか使えない力を……。
それから、美姫たちと同じ理由でやってきたアベックが、悲劇の現場を発見するまで、海辺に動くものは何一つなかった。
刑事ドラマのシーンそのままに警察がやってきて、美姫は所轄の警察署に連れて行かれた。その日は警察もあまり美姫を追求しなかったので、美姫が自分のアパートへ帰ったのはまだ十時だった。ベッドの上に座りこんだ美姫の心は、妙に静かだった。
「彼」は死んでいない。比喩ではなく、美姫の中にいる。それが美姫の解放した力だった。竹取物語の中では、不老不死の薬という誤った形で描かれている。
「彼」の肉体は死んだけれど、魂は美姫の体に取り込まれ、やがては美姫の魂と一体となる。「彼」はまだ目覚めていないが、目覚めたら「彼」の魂の方が主導権をとり、美姫自身の魂はそのごく一部に過ぎなくなる。それが彼女の選択だった。
(私、あなたを信じきれなかったのかもしれない)
内なる「彼」に向かって、美姫は思った。
(私が自分の正体を告白したとき、あなたは妖怪だって関係ないと言ってくれた。けれど、私はそれでも自分の力を使うのを恐がっていた。その結果あなたを死なせてしまった。あなたは最期まで、私を私としてだけ見てくれたのに)
美姫は自分の目から流れる涙に、気づきすらしなかった。
(こんな形であなたを助けたこと、あなたは怨むかもしれない。そうしたら私は何も言えない。だってこれは私のわがまま。あなたに生きていて欲しいの……)
続きは、はっきりと声に出して言った。
「ずうっと一緒にいようね」
意識が薄れてきた。美姫は目を閉じた。それが再び開いたとき、別人の光がそこに宿っていた。
「美姫……」
かすかな、呟きが漏れた。