ピグマリオンの罠

                            

  高津良明は急いでいた。会社が終わって同僚から飲みに誘われたが、今はそれどころではない。家に帰れば彼の心を完全に捉えている一人の美しい女性が待っているのだ。

2DKのささやかなアパートに帰り着くや否や、良明はテレビの前に座り込んだ。テレビとゲーム機の電源を入れると、ゲーム機のメーカーのロゴが表示される。昨夜から入れっぱなしのCDロムが回りだし、画面はソフトのメーカーのロゴが取って代わる。良明がちょっと忌々しいげにコントローラーのボタンを押すと、校舎を背景にして大きく「初恋」と表示される。「初恋」は高校を舞台にした恋愛シミュレーションゲームだ。この手のジャンルとしては後発であるが、女の子のグラフィックの美しさと、彼女たちの心理描写の巧みさで、新たなブームを巻き起こしている。良明を待つ女性とは、このゲームのヒロイン葉山祥子だ。祥子は美人で成績も良くスポーツ万能。性格も活発で優しい。まさしく理想の女性として描かれている。昨日の段階で、良明はようやくデートの約束を取り付けていた。

「よし、ここはなるべくいい印象を与えとかないとな」

高校は男子校だった良明にとって、このゲームの中の高校生活はまるで異世界のことのようだった。男子校といっても、積極的な者はそれなりに男女交際をエンジョイしていたが、良明は陸上のインターハイを目指して部活三昧の生活をしていた。大学には女性もいたが、憧れた女性こそいたものの、3年間の空白は大きく、結局どうしていいかわからないまま卒業を迎えてしまった。それからずるずると女性と縁のない生活が続いている。そして今、画面の中のヴァーチャルアイドルに完全にはまっていた。

良明は眩しさにふと目を覚ました。ゲームをしながらいつのまにか眠ってしまったらしい。画面の中で葉月祥子が優しく微笑んでいた。

「ごめんなさい。起こしちゃった?」

そう祥子が言った。

「いや、かえって良かったよ。まだ寒いし、ちゃんとふとんに寝直すから」

良明は言ってから苦笑した。ゲームのキャラクター相手に何を言ってるんだろう。

「そうね、だったらもっと早く起こしてあげれば良かったわね。あなたの寝顔を見ていたら、ずっとこのまま見ていたいなあなんて思っちゃったの」

良明は赤くなった。が、すぐに事態の異常さに気がついた。

「君がしゃべってるのか?」

「あ、そうそう。自己紹介もまだだったわね。私は葉月祥子」

「いやそれはよく知ってるけど、どうしてゲームの中の君がしゃべってるんだ?」

「それは私にもよく分からない。けれど私は生まれる前からずっと感じていたの。あなたの私に対する想いを……」

「俺の思い込みが君を生み出したっていうのか?」

「そうなんじゃないかなって、私は思ってる。でも本当のところはわからないわ」

良明は黙り込んだ。

「あなたが戸惑うの、当然だと思う。でも、私があなたを大好きだってことだけは忘れないで。たぶんそのために私は生まれたのだから」

  不意に祥子の顔が画面から祥子が消え、画面の外に現れた。画面の中のように上半身だけではなかった。

「画面から出られるのか?」

「ええ。でも、何かに触ることはできないみたい。ねえ、少しでいいからお話しない?」

祥子は良明の傍らに座り込んだ。

良明が次に目を覚ましたのは目覚し時計のベルによってだった。

(夢か……)

 思い返してみると結構恥ずかしい夢だ。大の大人が、ゲームのキャラクターが実体化する夢をみるなんて。しかもそのゲームが高校生の恋愛シミュレーションなんだから。

 その時聞き覚えのある声がかかった。

「おはよう。よく眠れた?」

 昨夜と同じように祥子がテレビの傍らに佇んでいた。

「夢じゃなかったのか」

「ええ、これは現実よ」

笑顔を浮かべて祥子はそう言った。

それから良明の生活は一変した……わけではない。生活の中のうさを晴らす対象がちょっと変わっただけだ。そう、ちょっとしたきっかけがおこるまでは……。

良明がひどく落胆して帰宅したのは、祥子が生まれてからおよそ一ヶ月くらいのことだった。

「どうしたの?」

心配そうに尋ねる祥子に良明は「ほっといてくれ」というばかりだった。ようやくなだめすかして事情を聞いたところ、良明は会社で大きなミスを犯したようだ。

「しかたないわよ」

祥子は心から言った。落ち込んでいる良明を見ていることは、祥子に耐え難い胸の痛みをもたらした。

「誰だってミスは犯すわよ。今度はがんばればいいんだから。お願いだからそんなに自分を責めないで」

必死の説得は、良明の心を軽くした。そして、最後には良明も笑顔を見せた。その笑顔は、祥子にとってかけがえのない大切な宝物だった。

「そうだね、わかったよ。がんばってみる。心配かけてごめんな」

「いいのよ。あなたが元気になってくれて、私も嬉しい」

祥子は微笑みを返した。その目から、徐々に涙が溢れ出す。

「ごめんなさい……。私……泣いたりして。あなたが元気になって嬉しいのに。嬉しすぎて、涙が止まらないの」

泣く祥子に良明は戸惑った。しかし戸惑いつつも、気持ちはすっきりしていた。

良明が少しずつ変わっていったのはそれからだった。家に帰って祥子に会社のぐちをこぼすことが多くなり、祥子は頷きつつそれを聞いていた。二人の会話は夜遅くまで続き、翌朝良明が起きる時間が少しずつ遅くなっていった。寝不足でミスが増えたのか、ぐちはますます多くなり、朝はそれに比例して遅くなった。そしてついに良明は一歩も外へ出なくなった。

 

甲斐君枝は、最後の患者を送り出すと、傍らのコンピューターに向かった。理知的な美人の彼女は、そんな状況がよく似合っていた。コンピューターには患者のデータが収められており、さっきの患者のデータもそこに加わることになる。彼女は精神科医で、最近若くして父親の病院を引き継いだ。父親は引退する年にはまだ遠いというのに、娘に患者を任せて嬉々として執筆活動に入ってしまった。

「ハイテク依存症か……」

彼女の呟きを看護婦の三田萌子が耳に留めた。

「最近多いみたいですね。やっぱり夢と現実の区別がつかなくなっちゃうんですかね」

「ん、よくそう言われるけどね。私は違うと思うな。ハイテク依存症っていうのはむしろ現実と夢をきっちりと区別してると思うの。区別した上で夢の方を選んでるんじゃないかな。区別してるからこそ少しは現実に対する意識が残っていて、さっきの患者みたいに自発的に精神科にくるのよ。夢と現実を区別できない人間はむしろ、ストーカーとか快楽殺人を起こすような人間ね。妄想癖がある人間といってもいいわ。それに比べればむしろ無害なほうだわ」

「無害ですか?」

  疑わしそうに萌子が言う。

「『他人にとっては』ね。ハイテク依存症も基本的には逃避だから全面的に否定はできない。逃避は時には必要なことでもあるのよ。問題なのは、逃避し過ぎて現実の生活が破綻しちゃったら夢を見るどころではないっていうところかしら。

そんなことになるのは本人が弱いからなのかもしれないし、社会がそれだけ人間にとって暮らしにくくなっているということなのかもしれない」

「どっちなんです?  先生」

「私にもわからないわ」

不意にファックスが動き出し、君枝の視線がそちらへ流れた。いつもの習慣で萌子がそれをまず読んだ。

「高津良明という人からなんですけど、先生にすぐ来てほしいそうです。お知り合いですか?」

「えっ、ほんとに?」

君枝はなんとも言い難い顔をした。

「何だって今ごろ…」

「恋人ですか?」

半ば冗談でそう聞いた。彼女の魅力とは裏腹に君枝に特定の男性がいないことを萌子は知っていた。

「昔のね。しかも私の片思いだけど」

「そんな。先生でも片思いするんですか?」

「ひどいなぁ。いくら私だって恋愛くらいするわよ。ひょっとして男嫌いに見える?」

萌子は慌てて否定した。

「そういう意味じゃないです。先生が好きになればきっと相手も先生に好意を持つっていうことで…。要するに先生がそれだけ魅力的だって言いたいんです。私は」

「ありがとう。でも、現実はそうもうまくいかないのよ。あいつったら少しも私のこと見てくれなかった。いつもどこか遠くを見ている人だった」

昔の思い出に浸っている君枝を少しそのままにさせてやり、しばらくたってから萌子はファックスを差し出した。

「今度は先生を見てくれるのかも知れませんよ。すぐに来てほしいと書いてあります。私はこれで帰りますから、チャンスを生かしてくださいね」

萌子はそそくさと帰っていった。君枝はかなり長い間ファックスをじっと見ていたものの、やがて意を決した。

「いまごろこんなものを送ったりして、なんの冗談かあいつに問い詰めてやるわ」

そうつぶやいて立ち上がった。

 

 良明はいつものようにテレビ画面に向き合っていた。今では食事や風呂など最低限、生活に必要な活動の時間以外は祥子と時間を過ごしていた。最初のうちは会社から足を運んだ友人もいてくれたが、それが途絶えるのはあっという間だった。解雇の通知も昨日届いていたが、いくつかのダイレクトメールと一緒に郵便受けに入ったまま放置されている。

ピンポーン。

久しぶりにドアのチャイムが鳴った。

「誰か来たわ」

祥子が言った。

「どうせセールスマンかなんかだよ」

良明は相手にしない。

「でも一応は確認した方がいいわ」

その言葉に良明はしぶしぶ立ちあがる。2度目のチャイムと同時に覗き窓から外を見ると、そこには意外な人が立っていた。良明の大学のサークルと交流のあった他校のサークル、その中でひときわ目立っていた甲斐君枝だ。当時はいつも活動的な服装だったが、今はスーツ姿なのが時の流れを感じさせる。けれどまさしく良明の憧れていたひとだ。さすがに良明は動揺した。いったいなんだって今ごろ彼女がこんなところに…。

鍵を開けてドアを開くと、君枝は昔のままの笑顔を見せた。

「こんにちは」

良明は口を開けて何か言おうとしたが、何も言えなかった。

「入っていい?

その言葉にコントロールされるかのように、無言のまま君枝を招き入れる。一呼吸いれてようやく良明は言葉を発した。

「なんだって急に俺のところに…」

「あら、あなたがファックスをくれたんじゃない」

君枝は咎めるような口調だった。良明は首を振った。

「いや、俺は知らないよ」

「そんな。でも確かにもらったのよ。ここの住所も書いてあったし、そうじゃなければあなたのアパートも分からなかったわ」

沈黙が流れた。それを遮ったのはもう一人の声だ。

「私が呼んだの。ほら、機械が電話回線にも繋がっているから。そこを通してファックスを送ったの」

二人が声の方に視線を向けると、そこには制服を着た少女が立っていた。祥子だ。祥子は良明の傍らを過ぎて君枝の方に歩き出した。反射的に良明の手が伸びたが、実体のない祥子の腕を掴まえることはできなかった。金縛りになったかのように動かない君枝にぶつかっていくと祥子はそのまま消えてしまった。

「これでずっと一緒にいられるわ」

動いたのは君枝の唇だったが、声は祥子のものだった。

「実体のない私ではあなたとふれあうことも手をつなぐこともできなかった。けれどもう大丈夫。外見は変ってしまうけど、心はあなたを愛している葉山祥子よ。せめて、昔あなたが憧れていたひとの体を選んだの」

「甲斐さんはどうなる」

「彼女の意識はずうっと眠っているわ。殺すわけではないの」

「けれどそれでは殺すのと変らないだろう」

「いいじゃない。彼女のことなんて。私とあなたがずっと幸せに暮らしていける。それが重要なんじゃなくて」

良明は沈黙した。そして、ひとつの決意を固めると部屋の中に飛び込んだ。ゲーム機の電源を落とす。振り返ると君枝の姿をした祥子が後を追ってきていた。

「無駄よ。そんなことでわたしは死なない。私はあなたが好き。だからこうしたんじゃない。なのに・・・。あなたは私を好きでいてくれていなかったの?」

「好きだったよ。でも、だからこそこんなやり方は許せない。君は誰よりも優しい娘じゃなかったのか?

これならどうだ」

今度はゲーム機のふたを開け中のCD−ROMを取り出し、叩き折った。それと同時に祥子の声で悲鳴が上がり、君枝が倒れた。夢中で君枝に駆け寄り抱き起こす。

「大丈夫か?」

君枝は意外と力強く目を開いた。

「大丈夫よ」

  君枝本来の声だった。

「どう説明したらいいのか。彼女は、そのう…」

「彼女自身が憑りついているときちゃんと説明してくれたわ。彼女を怨まないであげて。彼女はあなたにとって一番いいと思うことをしたの。あなたには厳しい言葉が必要だった。でも、ただ単純にあなたを愛するためだけに生まれた彼女は、あなたを直接傷つけることはできなかった。自分があなたをだめにしてるんだと思って、わざとCD−ROMを壊させたの。それが彼女を滅ぼす唯一の手段だから」

「じゃあ、まさか、最初から死ぬつもりで」

呆然としている良明を君枝はしばらく見ていたが、やがて心を決めると、両手を良明の首の後ろに回し頬にくちづけをした。

「現実の中で見ていい夢もあるのよ」

  そう言って驚く良明に微笑んだ。