とっても個人的なこと

2003年3月30日
 中途半端な形でリニューアルです。本当はもっといろいろ工夫してみようと思っていたのですが、どうしても書きたいことがあるのでやむを得ず途中で更新します。まあ、完成していてもたいしたことはないかもしれませんが。
 書きたいことは今のイラク情勢のことです。いつもは無理やりにでもギリシア神話に結びつけるのですが、今回は諦めました。まず、アメリカのイラク攻撃に正当性はありません。以前の国連決議を根拠にしていますが、決議とは、そもそも即時的なものでしょう。効力はそのとき限りだと思います。根拠となっているのは主に、イラクが武装解除しなければ重大な結果をもたらすとかいうものですが(本当は正確に文言を調べるべきですね。横着してすいません)100歩譲って効力があるとしても、イラクが武装解除しているか否か、どんな重大な結果をもたらすのかを判断するのは国連でしょう。そもそも以前の決議がこんなあいまいな表現になったのも、当時から意見の一致を見なかったためでしょう。
 次に日本の対応についてですが、私はアメリカを支持すべきではないと考えます。「北朝鮮の脅威を考えると日米同盟が重要であるから国益のためアメリカを支持するのはしかたがない」という意見が国民の大多数を占めているようですが、「世論も間違うことがある」という小泉首相の発言はむしろ今こそ使うべきなのではないかと個人的には思っています。
 日本の国益って、北朝鮮問題だけなのでしょうか? たとえば、アメリカを支持したことで日本はイスラム過激派の標的となる可能性が出てきました。北朝鮮という「国家」ならば「外交」という手段で抑えることもできますが、テロはそうはいきません。イラクにもし大量破壊兵器があれば、それをもったテロリストが今回の武力行使という刺激で世界中に飛び散るかもしれません。北朝鮮より、むしろこっちの方が日本にとって脅威なのではないでしょうか。また、イラクが実は大量破壊兵器を実は持っていないという可能性もまだ0になったわけではありません。そうであった場合、犠牲者にどうやって責任をとるつもりなのでしょう。北朝鮮についても、もし、イラクの次は北朝鮮ということにでもなったら、むしろ日本が北朝鮮のミサイルで攻撃される可能性は高くなると思います。
 経済的な面もあります。アメリカと日本は立場が違います。防衛をアメリカに依存しているように、日本は石油を中東に依存しています。もっと中東にも配慮すべきなのではないでしょうか。それに、日本は今、経済的に苦しい状態です。余計なところで金を出せないから断固として戦争を回避するという考えも、立派に国益を考えた現実的な対応でしょう。
 次に国連とアメリカについてです。「日米安保条約という形式だけでは、アメリカに日本を守ってもらうのは不十分だから感情的なつながりもなければならない」との意見がありますが、短期的にはそういう感情論も有効でしょうが、長期的にはあてにならないと思います。今回のアメリカの行動は、国益が絡めば一国で勝手に対処することを示すものであったはずです。アメリカにとっての国益のために安保を破棄する可能性もあるのではないでしょうか。もしくは勝手に解釈されるかもしれません。
 それに守ってもらうために相手を批判できないとしたら、日本は独立国家でなくアメリカの属国であるということでしょう。長期的に有効なのは強固なシステムだと思います。今、それに一番近い存在なのは国連です。もちろん今の国連はうまく機能していないわけですが、それだからこそきちんとてこ入れして改革のきっかけにするいい機会なのではないでしょうか。
 最後に、思いっきり感情論です。命の女神アルテミス(あくまで私見です)信者としては戦争なんて行為は絶対に許せません。どんな戦争も、長い目で見れば必ず資源の無駄遣いです。石油とかのそのものずばりの資源でなくとも、人的資源、環境資源などもあります。イラクなどは歴史的な遺産すら破壊されるかもしれません。
 失われていい命などこの世にありません。実際に被害にあった人の立場を想像すると、とても戦争など支持できません。「犠牲者は出るけれども、それによってより多くの人が救われる」などという意見は、日本人は絶対に言うべきでないと思います。それは広島・長崎に原爆を落としたことを正当化するアメリカの言い分とまったく同じものでしょう。わたしは少なくとも、原爆の犠牲者の死を仕方がなかったなど言いたくありません。ですから、イラクの人たちの死も受け入れたくありません。ましてやその結果としてもたらされるものが自国の安全では、恥知らずもいいところです。
 感情論を馬鹿にする風潮が強いですが、そもそも感情論がなければ戦争など抑止できません。核の抑止力の考え方だって、要は相手の報復が「怖い」ということでしょう。妙に小賢しい(決して賢いではない)理性的な人間より、感情的な人間の方がずっとましです。
 2001年の9月30日に書いたこととかぶりますけど、きちんといろんなことを考えてそれでもアメリカ支持が日本の国益だというならいいんです。でもアメリカ支持を仕方がないという人が、あんまり考えて結論を出しているようには見えないんですが・・・。
 結構本気で腹を立ててますんで、誰かを不愉快にしてしまうような表現をしてしまったかもしれません。そういう方がいたらお詫びします。
 反対の意見の人がいたら議論しましょう。ちゃんとした議論なら喜んで受けます。
 
 蛇足:日米安保を結んだ当時は「これは日米同盟ではない」という建前があったんだけれど今はどこもかしこも日米同盟と平気で言ってます。こういうのを「なし崩し」っていうんだろうな。


2002年8月18日
 今年も毎年の恒例行事として靖国参拝がニュースで話題になりました。個人的には私的参拝のみOKというふうに思っています。そもそも、公人に宗教の受け皿になる心があるとは私は思っていません。心がない以上、どんな形式で慰霊をしてもそれはパフォーマンスにすぎません。肩書きに参拝してもらうより、一人の個人が心を込めて慰霊する方が遙かにいいと思います。肩書きにより慰霊の価値に優劣をつけるのもどうかと思います。
 もっと社会的な視点で考えると次のように思います。日本では信教の自由が認められています。「靖国教」を信じている人から見れば靖国神社に英霊が宿っているのでしょうが、別な宗教を信じている人からみれば靖国神社は単なる建築物に過ぎないかもしれません。英霊が、靖国に祭られていると信じようが、極楽にいると考えようが、すでに生まれ変わっていると考えようが、天国で最後の審判を待っていると考えようが、ワルキューレに導かれてヴァルハラにいると考えようが自由なはずです(私的には、やっぱりエリュシオンにいると考えるべきでしょうか?)。そういう中で、首相が特定の宗教に肩入れするのは不公平でしょう。そのために政教分離の原則があって、この辺りのところはごくごく当たり前のことだと思うのですが。
 日本はもともとアニミズムの国だから靖国神社での慰霊は日本の伝統だという意見もあるようですが、それにも異論があります。一つの宗派への極度のこだわりって、むしろアニミズムや日本の伝統に反すると思うのですが。無宗教の慰霊碑の前で僧侶が経を読み神主が祝詞を奏上し神父や牧師が十字を切る、ある意味その方がよっぽど日本人らしい気がします。



2001年9月30日
私がアルテミスにはまった理由のひとつにバランスというものがあります。アルテミスはよく残酷な女神だと言われます。しかしわたしにとってはそれも魅力のひとつでした。というのも、優しいだけの女神でそれに頼り切る形になるのも嫌だし、疑う余地が全く無くて信じきるのも嫌だったのです。また、アルテミスは矛盾をそのまま抱えた女神です。片方で出産の守護神として命を育み、最後にはその矢で死をもたらす女神でもあります。人間もしょせんは残酷なもの、けれども同時に慈悲も持っています。自分も、その両方をうまくバランスをとっていきたい、そんな思いもありました。最近の風潮を見て、もう一度その気持ちを思い返しました。
今日本で例の同時多発テロに対して、アメリカの報復について様々な意見が上がっています。声としては、報復賛成、自衛隊の海外派兵賛成の声が大きいように思います。それ自体は確かにあっていい意見なのですが、彼らが彼らの意見に反対する人に対する態度を腹立たしく感じます。近年使われるようになって、彼らもよく使う「平和ぼけ」という言葉があります。個人的にはこの言葉は大嫌いです。相手の意見自体の誤りや問題点を指摘するのならともかく、意見をだす人自体をいたずらに貶めるこの言葉は、どちらの意見が正しいかどうか以前にアンフェアな言葉なのではないでしょうか。
確かに、テロの問題が話し合いで解決するとは私も思いません。けれども、報復でテロが無くなるわけでは無いというのもまた現実でしょう。その他にも無関係な人も巻き込まれるとか、憲法問題とか、そもそも少しばかりの自衛隊を送っていったい何の役に立つのかとか、考えなければならない現実は山ほどあります。あげられる疑問点に返って来る答えは「平和ぼけ」だったり、「とにかくテロは悪い」だったりでとてもちゃんとした議論とは言えません。本当は、こういう残酷な気持ちになっている時ほど慈悲の声にもっとよく耳を傾けて、それから結論を出すべきではないでしょうか(もちろん結論が報復になる可能性もあるでしょう)。なんでも武力行使に反対する人は確かに「平和ぼけ」かもしれない。けれど武力行使がもたらすものへの現実的な認識を欠き、闇雲に武力行使を主張する人も「平和ぼけ」の産物なのではないでしょうか(ここで「平和ぼけ」という言葉を使ったのは、「平和ぼけ」という言葉を連発する人に対する「報復」ですのできっと彼らも許してくれるでしょう)。むしろアメリカの方がよほど反対意見に耳を傾けていると思うんですが。
憲法解釈を変えろなどという暴論もまかり通っていますが、解釈でころころ変わるのではいったい日本にとって憲法ってなんなんでしょう。「悪法も法なり」といって毒杯をあおったというソクラテスの姿勢を少しは考えて欲しいものです。これでは日本は、「法治国家」と「民主主義」という二つの看板を下ろさなければならないでしょう。


2001年4月24日
昨日最新の「週間ポスト」を読みました。その中で注目した記事はこばやしよしのり氏へのインタビューでした。もともと「新しい歴史教科書を作る会」には神話マニアの観点から言いたい事がありました。その著作物の中で天岩戸の話を書いて面白い日本神話の代表的な例として持ち出しているようなんです。果して彼らは、あの話がギリシア神話との類似を指摘されている話だとしっているのでしょうか。そういう話を持ち出してもあまり日本神話の良さを強調する事にはならないのではないかと思います。
個人的な意見ですが、物語としての完成度は天岩戸の方が上だと思いますけど。デメテルとペルセフォネーの神話が伝わり、それを文才のある人間が太陽神信仰とからめて翻案したと考えるとしっくりするような気がします。
それにしても、こばやしよしのり氏の意見はかなりつっこみを入れたいところがありました。既存の歴史教科書の悪い点は事実を羅列している事で問題の教科書は歴史を物語として与えるのだそうです。私は歴史の面白さって断片化された事実に基づき正確な物語を作り上げる事にあると思うんですが。歴史の研究が推理小説に喩えられるのもそんなところからでしょう。私のギリシア神話の楽しみ方もそれに近いものがあります。最初から物語を与えられてしまって歴史の面白さがわかるとは思えません。与えられた物語を鑑賞する教科は国語の方でしょう。
日本神話を問題の歴史教科書の冒頭に載せているようですが、これもやはり、国語の教科書に載せるべきだと思います。


2001年3月20日
最近再販制度についてまた話題が出てきました。ホメロス諸神賛歌集を注文して手に入れた時にしみじみと次のように思ったんです。もし再販制度がなかったらきっとこの本は手に入らなかったんじゃないかと。ギリシア神話関係の本は詳しくなればなるほど営業的にはマイナスになるだろうから、再販制度が廃止されれば多くが絶版になってしまうでしょう。出版界の実状はそうでなくてもかなり厳しく、いい本でもかなり早く絶版になっているようです。私個人ととしては、再販制度の維持に賛成します。たとえ本の値が張っても、手に入らなくなるより遥かにましですから。
それにしても、聞き取り調査をした結果で、消費者は再販制度の維持に賛成しているのに消費者団体が廃止を求めていると報道されていました。消費者団体って、消費者の意見を聞かないでひとり歩きしているのでしょうか? 聞くべき人の意見を聞かないのって、困りますよね。まぁ、政治家も似たようなもんですけど。


2001年1月21日
下の意見で少し修正があります。実際の事件で「少年だから何をしても平気だ」というようなことを言って実際に少年が脅迫をした例がかつてあったようです。しかしそれを追認して広めることがはたしていいのかどうか私は疑問があると思います。むしろその点で少年法の保護主義について大人が堂々と胸を張って主張する方向性もありなのではないでしょうか。最近過激な映像表現や低俗なん番組などを、少年への影響を考えて規制する動きも見えますが、「少年法は軽い」などと報道する方が実際にはより危険だという可能性もあるのではないかと思います。
ちょっと関連して思い出すのが、「人を殺してみたかった」として女性を殺した少年の「若い人は将来があるから年寄りを狙った」という言葉です。事件などで子供が犠牲になるとマスコミもそれを強調し、世論も感情的になりがちです。あの少年はそんなとこからも影響を受けていたのではないでしょうか。私は社会全体に「人を安易に区別する」という風潮を感じます。それがなにげない形で少年達に影響を与えているのではないかと思います。事件を起こす少年も必ずしも思いやりが欠けているのではなく、思いやりをかける相手の範囲が狭すぎるのではないでしょうか。
こんなことをこの場で書くのは、ひとつは「青年を養育するもの」アルテミスの信者としてはほっておけないということと(笑)、そもそも自分がアルテミスにはまったのが、自己評価がひたすら低かった時期にどんな生命も大切に思ってくれるだろうと思えた女神にすがったことが理由だからです。安易に他人の人権を無視すると、結局は自分に返って来るのではないでしょうか。たとえそれが犯罪者だったとしてもです。もちろん罰するなということではないですけど、「情けは人のためならず」という言葉を本当の意味の方で、思い返す必要があるではないでしょうか。


2000年10月9日
少年法の改正も進んできたようです。今回の改正自体は、まあ妥当な範囲で終わりそうな気がします。ですが少年法についてのある意見についてギリシア神話を絡めて一言書いておこうと思います。少年法の改正の中で刑罰を重くし、それによって犯罪を抑制しようという考え方があります。しかし、このことについてひとつ異議があります。刑罰が犯罪に抑止力を持つには、実質がある必要は必ずしもないんです。ちょっと極端な例かもしれませんが、例えばギリシア神話のタルタロス、仏教の地獄などの実体のないものですら犯罪の抑止力になりうるんです(受け取る側がそれらに現実感をもっていればですが・・・)。少年たちへのアンケートで、「少年法は軽い」とか「犯罪を起こすなら少年のうちだ」などというものが報道されることがあります。けれど、それらの意見が本当に少年たちの間から出た意見であるか、私は疑問に思っています。一部のマスコミが「少年法は軽い」とか「少年は保護されている」とかを強調して報道するのをうのみにして、少年の意見が変ってきているように思います。それによって少年法は実際よりますます犯罪の抑止力を失っているのではないでしょうか。
情報をうのみにする事も、少年の未熟さのひとつなんです。


2000年9月3日
図書館のほうでも紹介した「特攻!アルテミス」20巻が発売されました。外伝の21巻がでますが、本編はこれで完結です。やっぱりおもしろかったですね。改めてお勧めします。ぜひ読んでください。同じ時期に「女神異聞録ペルソナ」のコミック化も最終巻が出ました。これもすごくよかったんですよね(一応ギリシア神話ネタもありますし、ここで紹介してもいいでしょう)。どちらも終わってしまうのが惜しい作品でした。わたしも人からそう思われるような作品でも書きたいんですけど・・・・(泣)。



2000年7月23日
新聞のテレビ欄の投書に、あるCMがいじめを感じさせるものだという批判が載っていました。私個人としてはそこそこおもしろいCMだと思っています。
ひとつ考えてみて欲しいのですが、なんらかの悪意のない笑い(ここでいう「笑い」は「おかしい」という感情からでる「笑い」です)というのが本当に成立するのでしょうか。改めて思い返してみると笑うのは、劣ったものや愚かなものやどこか変なものを嘲笑しているか、誰かがひどいめにあっているのを見るときだけのような気がします。エロネタや下ネタは悪意とまでは言い切れませんが、やはり表立っては言えない人間の負の部分で笑っているような気がします。これは今だけのことではありません。現存する唯一のサテュロス劇エウリピデスのキュクロプスも結局はポリュベーモスがひどいめにあう話ですし、ギリシア喜劇も登場人物の滑稽さを笑っています(アリストパーネスの喜劇は今読んでもおもしろいですよ)。日本の狂言や落語も同じだと思います。
こういう「笑い」はもともと悪意を含んでいることは自覚しなければならないですが、創作の笑いはあえて「悪意」は気にせず多いに笑ってもいいのではないでしょうか。悪いものをバランスよく許容することそれも大切なことという気がします。
ちょっと話は変りますが最近喫煙者や携帯電話への風当たりが強いですね。確かにたばこは周囲まで害があるかもしれませんし、携帯を使う事が論外な場面もあります。けれどこういうことも、少しくらい周りが許容してやってもいいのではないでしょうか。電車の中で携帯を使っていてもそれがうるさいというだけのことなら、携帯でなくても知り合いと乗っていれば会話はするものですから。人に迷惑をかけないように考えることは確かに大切なことですが、他人に迷惑をかけられたときそれをある程度許容してやることも大切なことだと思います。
注:ちなみにわたしはたばこは吸わないし、未だに携帯電話を持っていません。念のため。


2000年6月27日
衆議院議員選挙の投票が終わりました。出た結果はとやかく言いませんが投票率の低さには一言、言わせてもらいます。棄権は絶対にしないようにしましょう。「神話」と並んで「民主主義」も古代ギリシアの素晴らしい遺産です。ギリシア神話が好きな方々はぜひこのことも考えてください。
「投票する人がいない」と言うのはよくある意見ですが、そう言うかたは、ぜひ自分で立候補してください。現に立候補している人よりさぞかし立派な意見をお持ちなのでしょうから。
注:これは半分は皮肉ですが半分は本気で期待しています。われこそはと思う人はぜひ立候補をして日本を変えて下さい。


2000年5月23日
森首相が面白い事を言ってくれるのでちょっと黙っていられません。私は多神教大好き、シャーマニズム大好きで日本神話も決して嫌いではないのですがあの発言は問題だと思います。
「天皇を中心とした神の国」という発言、全体としてみると別の事を言っているんだという人がいますが、でもこの部分の発言の意味は明白でしょう。全体がよければ個々の部分はどうでもいいということにはなりません。この部分は普通の日本人ならば戦前の天皇=神の考え方を想像するのが当り前だと思います。日本が多神教であらゆるところに神がいるという思想をさしているのなら、「神々の国」とでも表現するのが普通でしょう(それでもちょっと説明不足か)。あくまでも多神教である事実をさしていると主張するならば、そもそも我々は日本語も満足に使えないような人間を首相に抱いていると考えるべきなのではないでしょうか。
首相の補佐をする官僚がある番組で、この部分はその発言をした会を開いた神社の団体の活動を述べたに過ぎないと言っていました。確かに、発言の続きも含めて考えるとそうもとれます。しかし、首相はその部分を「我々はそういう活動をしてきました」というような表現を使いました。政教分離を掲げている国家の首相が、ある特定の宗教団体にそれほど密接に繋がっているとしたらそれはそれで問題だと思います。わたしはああいった会合への出席自体に疑問を感じます。
そもそも日本神話のよりどころとなる古事記や日本書紀は、かなり政治的な意図でまとめられていると思います。それゆえに、日本神話は日本民族のものとは言い切れないものになってしまったと私は思っています。あくまでもあれは皇室の神話と言うしかないのではないでしょうか。また、その後天皇が政治的に重要視されるにつれ神話すら天皇の添え物に過ぎなくなっていきました。そうした状況は天皇が唯一の神であったのとかなり近い状況だったと思います。「神」という単数形の表現はそのあたりのところにも引っかかっているのですが、私の考え過ぎでしょうか?
ふたつ下の項目で書いた日本における神話と信仰の乖離は、このへんが原因のような気がします。日本神話は天皇という唯一神と民間信仰と二つに別れて引き継がれていったのではないでしょうか。


2000年5月14日
最近未成年の凶悪事件が続いています。命を尊重するアルテミス信者(笑)としてはとても心が痛みます。それはともかく、この手の事件が出るたびに実名報道をしろだの、刑を重くしろだの、バスジャックに関しては射殺すればよかっただのと意見が出てきますが、未成年の犯罪というものは基本的なものは昔となんら変わらないと思います。原因はたったひとつ、「未熟」。見かけ上は確かに凶悪化し、犯行が計画的なこともありますが、原因が「情緒の未成熟」ににあることは少年法ができた当初の少年犯罪と変わっていないのではないでしょうか。刑罰を適用する年齢を引き下げるという意見もありますが、情緒が未成熟である人間の年齢はむしろ上がっているのではないかと思います。情報に溢れ、論理的な思考力はそれなりにつくけれど情緒が育たないのが今の社会なのかも知れません。
犯罪被害者の側が平気で「わたしは他人には人間の尊厳が感じられません」といいきっちゃうんだもんな。それって犯人と同じじゃんと突っ込みたくなる。困ったもんだ。


1999年12月26日
12月24日のNEWS23の特集「信じる」を見てびっくり。インドって今でも信仰としての神話が残っているんですね。ギリシア神話は信仰としての側面は完全に死んでしまったし、日本神話は不思議なことに信仰と神話が乖離してしまっているし(日本人は神社にお参りしますが、そこにどういう神様が祭られているかはあまり気にしません)。
合理的な精神も合わせて持ちあわせていた古代ギリシア人はインドとはまた違った神話との付き合い方をしていたと思いますが、どんな感じだったのでしょうか。



1999年9月11日
トルコに引き続いてギリシアも地震に襲われました。トルコが、先の地震の時のギリシアの救援の返礼にと救援隊を送ったようです。トロイア戦争以来(もちろん国自体が直接引き継がれたわけではありませんが)険悪だった両国の関係も、少しは良くなったようです。これも大地を揺るがす神ポセイドンの恩恵かもしれません(笑)。
ところで、今回の地震では遺跡が無事である旨をきちんと伝える報道がありました。やっぱりトルコとギリシアの知名度の差なのでしょうか?



1999年8月21日
およそ1年前トルコに行ってきましたが、そのトルコが大きな地震の被害に遭いました。私は神戸の方には行ったことがないせいでしょうか、阪神大震災の時より思うところが多くあります。1万人を超える亡くなったかたがたのご冥福を祈ると共に、一人でも多くの人が助けられることを願わずにはいられません。
今回日本の救援部隊の対応は迅速だったようで、過去の経験をちゃんと生かしていたんだと嬉しく思っています。がんばってほしいものです。(救援部隊の人達のせいじゃないですが、たまたまうちでとっている新聞が、一人助けたことを過剰なほど自慢げに書いていたのが非常に不愉快でした)
人命以上に大切なものではないですが、私としては遺跡などに被害がないかも気になりますね。そのあたりのところは報道されていないし。


1998年9月22日
トルコから帰ってきました。収穫は多かったと思うけれど今は疲労の極みです。今回の経験は形にしたいと思うけれど、いつになる事やら・・・。


1998年9月5日
もうすぐトルコへ行きます。もちろん一番のお目当てはエフェソス。本場のアルテミス神殿へ行ってきます。もっとも、柱一本しか残っていないけれど。
なにか新しい発見があるといいのですが。


1998年5月29日
パキスタンが核実験を実施しました。
おっと、いきなり社会的な話題(笑)。
いろいろ反対の声が上がっているようですが、現実に世界が核の抑止力を信じている以上あまり大きなことは言えないのではないかと。日本も安保条約でアメリカの核の傘下に入ってるし・・・。
個人的には核の抑止力など幻想だと思っています。仮に2ケ国の間をアルテミスが美しい鹿と化して駆け抜けたとしたら(もちろん比喩ですよ。念のため。)、果して人間は投げかけた槍を引くことが出来るほど賢いのだろうかと考えてしまいます。アルテミスが人類を滅ぼすと決めたとしたら、きっと簡単なことでしょう。
槍を手放すことが一番賢明な手段だとは思いますが、それすら出来ないのが現状なのかなと思っています。
いずれにしろ、決めるのは人間なのでしょうね。


1998年3月28日より無意味にカウンターをつけてしまいました。このホームページがいかに誰にも見られていないかを確認するだけかも・・・。でもいいのさ。このホームページはもともとネットの中のひとりごとのつもりなんだから。