処女神アルテミス?


アルテミスについてもうひとつよく知られている性格は、純潔の女神であるというところでしょうか。ところが、必ずしもそうではないのです。

アルテミスはもともと豊穣を司る女神で、古代ギリシアでは出産と子供の守護神として崇められていました。最近では、エフェソスの多くの乳房を持ったアルテミス像もメジャーになってきたようです(注1)
出産の守護神といえば他にエイレイテュイアがいますが、この名前は他の神々の名の後について、その神が出産の守護神であるという形容にもなります。アルテミスは時に、アルテミス・エイレイテュイアと呼ばれていました。もっともアルテミスだけではなくいろいろな女神につけられていたのですが、神話中に出産の守護神にふさわしいエピソードをもつのは私の知る限り(本家のエイレイテュイアは別として)アルテミスだけです。アルテミスとアポロンの母レートーはまずアルテミスを産み、運命の女神モイライがアルテミスをすぐ母親の助産婦にしたとあります。アルテミスは生まれながらの助産婦と言えるでしょう。

また、子供を育てる神という称号ももっています。ハイドロトポスとクードロトポスで、前者のほうが対象年齢が低いようです。神話中でも、アルテミスのこの役割は現れています。それは捨てられた子供が動物に育てられるエピソードです。3例(アタランテー、パリス、オイディプス)ありますがそのうち2例はかなりアルテミスと関係があるようです。アタランテーはいうまでもないでしょう。パリスについてですが、パリスの捨てられたのはアルテミスと関連のあるイデ山。彼に乳を与えたのは熊で、これはアルテミスの聖なる獣です。オイディプスについては特にアルテミスと関連付けられる要素はないようです。

イーリアスには、捨てられたひとりの少女を女神たちが育て上げるというエピソードがあります。このときヘーラーは少女に美しさを与え、アプロディーテは自らの乳を与え、アテナは女性の仕事の技術を教えたとあります。アルテミスは彼女の背を高くしたとあります。アルテミス自身が背が高いとされていたせいとも考えられますが、アルテミスが成長とも関連付けられていたのだとも思えます。(注2)

ちなみに、古代アテネで結婚式にはゼウスとヘラ、アポロンとアルテミスにいけにえを捧げる習慣があったようです。(注3)

逆に処女神にふさわしいと思われる神話もあります。ひとつはアクタイオーンの神話です。裸身を見られたアルテミスがアクタイオーンを鹿に変え、残忍な復讐をするというものです。しかしこれには別の解釈もできます。古い壷絵に鹿の皮を被ったアクタイオーンがアルテミスに矢で射殺されるというものです。こちらの方が古い形なのかも知れません。ついでに私の個人的な解釈を付け加えておくと、この神話には別の神話と類似点があると思います。その姿を見たものを石と化すゴルゴン3姉妹の話と、ゼウスがヘラの前に現れるときの姿を見たためにいかずちに打たれて死んだ、ディオニュソスの母セメレーの物語です。すなわち、神々の本当の姿を見ることは、人間にとってタブーであるということです。アルテミスの場合その姿が裸身、タブーを犯したアクタイオーンは神罰を受けねばならなかったのでしょう。

もうひとつはカリストーの神話です。妊娠したカリストーを狩の仲間から追い出し、または殺したとされる物語です。殺した説をとるとちょっと弁護しきれないけど、狩の仲間から追い出したのは、出産の守護神にして子供の女神にふさわしい行為です。危険な狩の仲間に妊婦のニンフ(別にしゃれのつもりはありません。)を入れることは、むしろ出産の女神の性格に反するでしょう。もうひとつ考えなければならないことは、アルテミスに付き従っていた少女たちは本来子供であるということです。未婚か既婚かは、もっとも原始的な大人と子供の区分かと思います。妊娠したカリストーはもう子供ではなく、それゆえアルテミスの庇護下からはなれなければならなかったのではないでしょうか。

カリストーについてはもうひとつ別な解釈もできます。そもそもカリストーという名は、アルテミスの称号であるカリステー(もっとも美しい女性という意味)が変化したものです。すなわちカリステーはアルテミスの分身といえるのです。ちょっとゼウスがカリストーに言い寄ったときのことを思い出してください。ゼウスはほかならぬアルテミスの姿をとって彼女に言い寄ったのです。言い寄ったほうも言い寄られた方もどちらもアルテミス(もしくはその分身)なのです。これは何を意味するのでしょうか。二人の間に生まれたアルカスがアルカディア王家の始祖になったことと考え合わせると、そもそもアルカディア王家は母神としてのアルテミス、もしくはそれによく似た女神の血を引いているという伝説があったのではないでしょうか。それがオリンポスの神話に取り入れられるとき、処女神となったアルテミスの血を引くという矛盾を解消し、なおかつゼウスの血を引くということで箔をつけるためにできた神話なのではないでしょうか。

神話中だけではなく、エフェソスのアルテミス神殿ではアルテミスの母神的な側面を表す習慣がありました。それは、巫女による売春です。今の視点で見れば異常に見えるかも知れませんが、これはアルテミスに限らず、ギリシアではアプロディーテ、インドでも何柱かの女神の神殿で行われていました。忘れてはならないことは、この習慣が必ずしも男性中心の社会であるからゆえに起こったのではないという事実です。これらの女神はいずれも、男性より女性(より正確には父性より母性)が崇拝されていた時代に現れた女神なのです。

アルテミスが必ずしも処女神でないことはおわかりいただけたかと思います。でも、個人的にはアルテミスは処女神であってもいいと思ってます。処女には、もうひとつの意味があるからです。処女峰、処女地、いずれも「人間の手がまだ触れない。」という意味で「処女」という言葉が使われています。自然の、人間の手が触れない領域を司る女神、それがアルテミスなのです。



注1:最近は乳房ではなく、牛の睾丸であるという説が有力らしい。かつて牛の睾丸を首飾り状にして捧げる習慣があったそうだ。しかし乳房にしろ牛の睾丸にしろ、意味するところは豊穣だし、牛の睾丸を捧げる習慣自体が乳房に見立ててのことであった可能性もある。ちなみに、エジプトの女神イシスなども多くの乳房を持った姿で描かれることがあるようだ。

注2:ヘーラーとアプロディーテの役割について違和感があるかもしれませんが、アプロディーテはもともとバビロニアのイシュタルの流れをくむ母神ですから母乳を与えてもむしろ当然ですし、ヘーラーも神々の女王として(威厳に満ちた)美しさのイメージを持っていたと思われます。

注3:ここでなんでアポロンが出てくるのか、私にはわかりません。あんまり結婚と結びつく役割は持っていないとおもうのですが。単に神々の男女のバランスをとるだけなのかもしれません。