第40回記念 春の文人展清談より
(昭61.5.25. 於 高台寺 講師 森岡峻山先生:文人連盟参与、運営委員長)


文人連盟の今昔

 文人連盟創立四十周年を迎えまして、洵にお目出度く御同慶に存じ上げます。
年を逐うて愈々盛大になりますことは、会員の皆様の御協力の賜と深く感謝申上げます。
創立当時のことを回顧して、お話せよとのことで、旧い記憶を辿りつつ想い出話をいたします。

 昭和二十一年の春、当時の京都市文化局長尾形正雄氏と懇意になり、
「文房具を見せてくれ」とて、小生宅へ遊来されました。
お話のさ中「芸術文化の団体に対して、京都市は後援をして下さるか」との問いに対し
「依頼されればいくらでもしますよ」とのこと。当時京都には書としての団体は、
平安書道会(長尾雨山創設)が唯一なのでした。
早速、文化局にお願いに参りました処、快く承諾されて、同課の梅原氏を係として嘱され、
面倒をみていただきました。
 そうして市役所で創立の会合を、数回開くことになりました。
 出席の諸先生方は、中野越南、園田湖城、原徂山、日比野五鳳、石田凌風、谷辺橘南、
木村陽山、大廉堂、内藤璂土、入見少華、甲斐虎山、綾村坦園、秋山公道、竹内香邨、
河野秋邨、水田硯山、田能村直外、加藤紫山、森田緑山、川奈部尚石等、京都現住の
先賢者ばかりでした。そして市の文化課の西川子粛氏が参加して事務をとって下さいました。
 かくて協議は進み、十一月に「京都文人連盟」と名称して会を創立、内規も出来上って
一般の方々の賛同参加を得たのであります。

 初代会長には、時の京都市長神戸正雄氏が就任、昭和二十二年の十一月に京都大丸六階に
会場を設けて、第一回文人展を開催、発会式を挙行したのであります。
 翌二十三年十月には建仁寺本坊において第二回展を開催いたしました。
 当時戦後の進駐軍の申し越しで、公職にあるものが関係する団体に種々話合いがあり、
市長は会長を新村出博士と代られ、吉井勇氏が副会長に就任して下さいました。
 大西良慶清水寺貫主を始め各宗管長、神社宮司、その他芸術院会員等知名の文人各位が
参与として御後援をいただくことになり、二十四年には市の文化課にあった事務局も、
寺町二条上る古梅園に移し、市の管轄を離れて「文人連盟」と改称したのであります。

 尓来毎年秋に展観を続け、会場を、聖護院、法然院、黒谷金戒光明寺、永観堂、真如堂、
仁和寺等、京洛の名刹に移して、芸術文化と共に名園をも観賞したのであります。
近年は東福寺の紅葉の頃に開催を続けて現在に到っています。
 昭和二十五年には大臣賞、知事賞、市長賞をも交付を受けました。
 また、講演研究会は二十三年頃より例会をもち、参与の方々、黒田重太郎、須田国太部、
寿缶文章、楠部弥弌、神田喜一郎の諸先生方に、各界の異ったお話を拝聴し、会場も無鄰菴や
陽明文庫等を使わせていただき、研鑽を何年か続けましたが、その後これに代って高台寺本坊に
会場を移し、春の文人展を開催することになりました。
 これは会員作品の展観ではなく、中国明、清の書画、江戸時代よりの書画、和歌俳句、経典等、
毎年いろいろとテーマを代えて、古典、先賢の遺作を観賞し、併せて講演もしています。
展観は未公開のもの等多く、会毎に好評で数奇者によって非常な賑わいであります。
また会員物故者の追悼会もいたしました。
 会長は新村出先生逝去後、平澤興先生、塚本善隆先生、そして現在は奥田東先生に御就任を
お願いしています。

 事務局を担当して下さる方々は、とても熱心であり、誰よりも会を愛する心持ちにて、
スムーズに運営委員会をリードして下さり、すべては順調に、愈々充実した文人連盟として
永く発展することを信じております。
 文人連盟創立の主旨は、専門作家の養成ではなく、京都市民の愛好者が気軽に、芸術文化に
参加して、書道、文人画、篆刻と東洋の傳統芸術に、一管の筆、一本の刀にその妙諦を極めて、
心の友として語り合い、相求めてゆく場として、楽しい集いでありたいのです。
 山紫水明の風光に培われた、わが京都の文化は、一千有余年の星霜のもとに、その特有なる
内容と形式を創り上げ、正に本邦文化の淵叢であります。
 江戸末期より華々しく活動してきた文人墨客の生活こそは、悠々風雅を慕い、怡々清適を
逐ってまことに文運の精華でありました。然も多くは寓を京都にトし、各々その蘊蓄を誇り、
文化的使命を果してきたのであります。
 先賢の遺風に応えて創立した文人連盟は、我が国唯一のものであり、その趣旨に誇りをもって
愈々娯しみつつ、斯道の普及発展に努力したいと思います。
 簡単ではありましたが、御静聴を感謝いたします。

第一回文人展発会式 京都大丸六階(昭和22年11月)


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