貝がら山遊園

サニーターボルプリ(RHB11型)

<1989年7月〜1992年12月>

能登島にて

 私が初めて購入したクルマで会社に入った年の7月29日に納車されました。会社に入って最初のボーナス8万円にローンも組んで、昭和59年式で走行5万kmの中古車を37万円で購入したものです。当時はまだ中古とは言え新人がクルマを買うのが珍しい時代で、職場で別の部署の先輩(カリーナGTに乗ってた)がやってきて「なんか新人でクルマを買ったヤツがいるんだって!?」「あ、それ僕です。」「うわ!お前か!そういう時代になったのか!」 と話題になりました。

 「マイナーな車は中古車相場が安い」との情報を中古車情報誌で仕入れて探した車です。たしかこれより下のグレードのGX−Rよりも安かったと記憶しています。そんな安い車でしたがダイナモが1回イカれた以外は特にトラブルもなく(マフラーに穴が空いたとか、ブーツに穴が空いたとかはありましたが)、10万kmちょいまで乗りました。


車について

 ちょっと古い車なので説明が必要でしょう。サニー4代目となったB11型で昭和56年に発売されました。サニー初のFF車(前輪駆動)です。昭和56年当時のラインナップは4ドアセダン、クーペ、カリフォルニアでした。クーペというのは後のAE86型レビンの3ドアの形、だと思って頂ければ想像がつくでしょうか。カリフォルニアというのは5ドアのワゴン型です。当時の省エネブームに乗って車体は軽量化され、またエンジンにも省エネのための施策が施されました。

 昭和57年のモデル追加で、大衆車で日本初となるターボチャージャーがセダンとクーペに搭載され「ターボルプリ」を名乗ります。当時日本車でターボチャージャーが搭載されていたのは、スカイラインやグロリア、クラウン、マークUなど2リッタークラスのどちらかと言えば高級車の部類に入る車ばかりでしたから、大衆車のサニーで搭載したのはニュースになりました。これら車の名前を見てわかるように、当時ターボはスポーツカーではなく、装備が充実したつまり重いスペシャリティーカーを速く走らせるための装備として捉えられていました。実際サニーターボルプリも、ホンダプレリュードやカローラレビンなどスペシャリティーカーへの対抗製品として作られたものです。

 昭和58年のマイナーチェンジでクーペが姿を消し、当時マツダファミリアが流行に火を着けていた3ドアハッチバックに変わります(セダンとカリフォルニアはそのまま)。このモデルのターボルプリが、私の持っていたクルマです。ちなみにクーペスタイルは3年後にサニークーペRZ−1として復活し、それがさらにその先のEXAやNXクーペに引き継がれていきます。

動力

E15ET型エンジン

 SOHC4気筒1487ccのE15ET型。日産のエンジン形式命名規則に従って、Eは型式、15は排気量、次のEはEGI、そしてTはターボを表します。カタログ上の最高出力/トルクはグロス115ps/17kgmと効き、豪快なトルクで胸がスーッと空くような加速をしてくれました。当時の「CAR GRAPHIC」誌のテストで0→400m17.0秒。これは後発のAE86レビンなどと同等でさほど速くはないのですが、最初の200mぐらい、0→時速80kmぐらいまでは猛烈に速かったものです。

 ただしE15系エンジン全般の特徴として、剛性が弱いのか低回転時のトルクの無さが目立ち1500rpm以下ではカスカスです。また気持ち良い加速をするためにはアクセルの開け方はちょっとコツが要り、最初からベタっと踏んでしまうと空燃比が悪くなるのかブスブスいって加速してくれませんので、少しづつじわっとアクセルを踏んでちょっと待ち、ターボノイズが聞こえ出したらぐいっと踏みつけるとコツが要りました。

 マフラー類もターボ専用のもので、出口径40φという当時の1500cc車ではかなり太い部類で、「ボボボボ」という低い排気音がとても心地よかったことを覚えています。



足まわり

 サスペンションはフロントがストラット、リアがセミトレーリングアームの4輪独立懸架で、専用スプリングとダンパーで結構堅いものでした。また4輪ともディスクブレーキを装備しています。またいくつかあったグレードの中で、スポーツモデルのGX−Rとこのターボルプリだけはフロントにアンチロールバー(スタビライザ)を装備していました。

 ただ後輪のセミトレーリングアームには横方向のスタビライザもリンクも無く、横剛性が極端に低いものでした。このため急コーナーを曲がると、左右の後輪がドタンバタンと飛び跳ねるような動きをしてしまいます。まあもともと、コーナーを攻めるような車ではありませんが・・・

デザイン

栃木あたりの山の中

 当時流行していた四角いボクシーな外観で、リアのグラスハッチが最大のウリでした。これはリアのゲート部分が巨大な1枚ガラスでできて いて、ガバっと開くものです。油圧のテンショナーもガラス面に穴を空けて直接ついていますが、重いせいか、 8万kmあたりで油圧が抜け、一度交換しました。またハッチバック面が黒いのは、当時「ハイパワー3ドア」の証 として流行したものです。当時の3ドア車でハイパワーエンジンを持つものは、みんな後ろが黒かったものでした。

 購入時にはリアのグラスハッチ部にディーラーオプションのサンシェードフィルムが張りつけてあったのですが、劣化してヒビが入っていたので、剥離剤をつかって剥がしました。そこでちょっとしたドレスアップとして、写真でもちょっと見えますが昭和40年代TSサニー風の真っ白なラインを車体側面に入れ、さらにレーシングサニーでよく見られた「1200GX」のロゴをもじって「Sunny 1500GX」というロゴをカッティングシートで作って、そのライン上に張りつけていました。



運転装置と内装

今となってはマイカー乗り入れ禁止の、乗鞍の畳平

 パワーステアリングはありませんが、特にハンドルが重いとは思いませんでした。5速マニュアルトランスミッションで変速レバーは一般的なHパターンですが、最近のFFマニュアル車ではワイヤーでトランスミッションと接続されているのに対して、このサニーでは床下に付き出た変速レバーとトランスミッションが長い棒で連結されている構造でした。このため変速操作はかなり重い感覚でしたが、ガチッ!と確実に決まる感覚がありました。

 室内は、ターボルプリは「スペシャリティ」として位置付けられていたためシートもクッションの厚いセミバケットでふかふかしており、実のところ長時間の運転に向くものではありませんでした。それでもいちおうフルフラットになるので、車中泊に便利です。リアシートもリクライニングするので、枕にちょうど良いものでした。

 ちょっと面白い装備として、フロント運転席にのみエア式の無段階調整可能なランバーサポートが標準装備されていました。



おもいで

いろは坂馬返駐車場

 この車では、夜な夜な日光のいろは坂にアタックしていました。このためにNISMOの強化クラッチを入れたり タイヤを185/60R14のM3に変えたりしてました。当時はE15エンジンのチューニングパーツがまだかろうじて 残っていて、インタークーラーやブーストUPコンピューターなどなど雑誌で見てわくわくしたものですが、お金が なくてそういった大掛かりなものは買えませんでした。それでも車重が軽いこともありなかなか速かったものですが、 さすがにスープラやシビックSiRにはかなわず少しでも速く走るためにラインどりを研究しました。またブレーキングで過重をウンと前に かけてタックインを起こし、4輪ごと滑らせたりもしましたっけ。もしかしたら標準サイズの175タイヤがいちばん 速く走れるのかもしれません。ここではカローラFXの人に声をかけられ、何度かいっしょに走ったものでした。



千里浜なぎさドライブウェイ

 もちろんドライブにもスキーにもこの車で行きました。特に雪道での走行性能がとても良く、真冬の月山道路や やはり真冬の北陸など楽しんで走ったものです。標準装備のサンルーフは真冬のドライブにとても良いものでした。 暖房を入れると頭が涼しく足元が温かいという状態になるためです。でもゴミとかが結構室内に入ってきました(^^;  一度、冬季閉鎖直前の奥志賀林道で凍結路に気づかず スリップして路肩の雑木林に落っこちたことがありました(^^; 真夜中で誰も通る気配が無いので、ワイヤーロープ をタイヤに巻きつけて自力で引き上げたことも今となっては良い思い出です。

 とにかく、私に自動車を運転することの怖さ、難しさ、そして楽しさを教えてくれた1台です。今では路上でも中古車市場でもほとんど見ることができなくなりましたが、歴代サニーの中でも珍しい車種でもあり、もし金銭的に余裕があるならまた手に入れたいクルマです。



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