東北震災被災地へ  平成24年8月26日ー27日    TOP  BACK

 
気仙沼駅
右手に観光案内と、代替バスの停留所があります
8月26日

現地に行って自分の目で確かめておきたいという気持ちはあったがあまりにも悲惨な状況の中へ出向く勇気がなかなか出ないものです。ボランティアで行くならまだしも、気がひける。震災後1年半となり旅行会社も観光をかねた買い物支援の企画なども見られるようになった。そこで、思い切って出かけてみた。まず最初に行き先と宿泊を決める。
気仙沼ー南三陸町に決めた。ここはJR気仙沼線の気仙沼ー柳津間に代行バスが走り出したことを知り調べると1時間一本は走っていた。
大船渡線は一関ー気仙沼は電車運行している。柳津ー小牛田も電車が運行している。気仙沼にホテルも予約が取れた。
26日の朝5時30分に家を出る。青春18キップで気仙沼に向かう。
大宮、宇都宮、、黒磯、郡山 、福島、仙台、小牛田と7回の乗換えで10時間半かかった。
気仙沼駅に下りて駅前の観光案内所によって付近の様子と地元のお土産や食堂などを教えてもらう。
自転車で回れるコースを書いたパンフレットをもらって港の方に向かって歩く。
 
紫市場の一部
ソフトクリームの看板でコロッケでビールを
気仙沼駅はかなり高台にあって津波の影響はない、民家、商店も見た目はさほど崩壊した感じは受けない。もう修理をした後かもしれない。
工事中の商店などを見ると建物の内部は崩壊が見られる。
市役所も津波を受けなかったようだ。ここで右に折れて南町一番街に行く。修理されて営業している店もあるがほとんどは休業です。
その先の紫市場という仮設の商店街に行ってみた。衣類雑貨など生活用品尾店が仮設長屋で営業していた。食べ物屋は少ない。
この辺りからもう海が見える。ほとんどの建物が津波にやられたため撤去されて土台敷地のコンクリートだけが残っているだけです。
港に近い気仙沼横丁という気仙沼で最初にできた架設商店街は飲食店が多いが5時過ぎの開店でまだ閉店中だった。
エースポートという大島へのフェリー発着所は活動していた。
桟橋は海中に沈んでいる。津波の破壊力の恐ろしさがいくらか分かる。
海沿い一帯は大きな建物がポツリポツリと残っているほかは更地になっていた。残った建物も1−2階部分は柱だけだったり今工事中だったりする。残骸や瓦礫はきれいに片付けられて、更地には雑草が生い茂っている。元の町がこんな雰囲気かと錯覚してしまう。
 

気仙沼横丁
 
 
崩壊した桟橋
今まで一度しか訪れたことのない町、気仙沼の元の姿が思い出せない。
男山という酒屋さんの古めかしい建物がやや傾斜した状態で建っているのが哀れだった。帰ってから調べるとこの建物は木造3階建てだったと知る。1〜2階部分は流失して3階が地面意着地していたのだろうか?
紫市場にも戻り、営業していたコロッケ屋さんでコロッケとメンチカツでビールを飲んだ。お店に人に声をかけるのにも戸惑っているとおばさんが話しかけてくれた。毎日、遠くから来てくれてありがたいとにこやかに話してくれたがその奥には何かやりきれない気持ちを感じた。
一生懸命に生きなければと自分に言い聞かせているようだった。
夏休みで今は遠くからバスで子供たちがやってきてはイベントをしたり、励ましてくれるのは励みになるといっていた。
駅に戻り、山側にさらに20分ほど歩きビジネスホテル景山閣に泊まった。
 

 男山という酒屋
元は三階建て?
 
土蔵だけ残る
撤去を拒否か保存建物か?
8月27日
海から600mも離れたところまで流され、津波の恐ろしさを物語るシンボルとなった共徳丸を見に行く。
酒屋男山の本店の前を通り、海岸を歩く。漁船は新しいものばかりだ、津波で流されたか壊れたので新しくしたのだろうか。なんだかしっくりしない港の風景だった
気仙沼女子高等学校が崖の上に建っている。この震災で生徒数が減って2014年3月閉校が決まったそうだ。
五十鈴神社を通り越すとの高台にホテル望洋がたつ。
共徳丸の船体が遠く見えてきた。このあたりは震災と津波と火災に見舞われた地区で残っている建物は少なくほとんど更地だ。
道路わきにお地蔵様が祀られていた。後は切り立った崖だ。平地が少ないため切り開いて港の周辺に住んだり、商売の拠点を作った様子がよく分かる。人工的に作った平地の建物はすべて流されたか火災によって消失した。
人間の力の弱さ、自然の力には太刀打ちできないことを教えてくれている。
地盤沈下のためだろうか更地のいたるところに水溜りができている。山すそにかろうじて助かった民家が点在するが修理中のところが多い。

 
 
更地は水溜り

共徳丸、大きい
 
新浜町のバス停を過ぎると共徳丸の大きさが分かる。全長60mの大型船だ。船体は鉄の支柱で支えられている。向日葵の花が心なしかうなだれて咲いていた。大船渡線がすぐわきを通っているはず、ちょっとよってみると50mほどのところに鹿折唐桑駅があった。線路はすっかり荒れて雑草が生い茂り線路は赤くさびていた。駅前の4個の椅子だけがひっそりと客を待っていた。
鉄道ファンでなくても寂しくなってしまう。
帰りは五十鈴神社をまくように海端の遊歩道を通った。赤い手すりの遊歩道から見る気仙沼港は実に穏やかだった。
大島へのフェリーが気になったのでよってみると丁度出港するところで急いで切符を買って飛び乗ってしまった。
快い海風にあたりながら25分ほどで大島鞆の浦
に着いた。
キップ売り場でどこか寄るところを聞くと亀山に登ると気仙沼湾が一望できると教えてもらった。
地元のおばさんに行き方と時間を聞くと片道30分くらいだと教えてくれた。
帰りのフェリーを考えるとちょっと厳しいので乗ってきた フェリーで引き返した。

気仙沼港
真新しい漁船ばかり
 
 
最知駅付近
鉄道の軌道敷
 急いで気仙沼駅に戻ってJRの代行バスに乗った。静岡の清水から来た人が同じバスに乗り合わせ、旅の道連れにってもらう。
最知駅は線路が舗装されてJRバスの専用道路になっていた。
大谷海岸駅で途中下車してみた。道の駅をかねた駅舎はコンクリート2階建てだが中は崩壊している。跨線橋は残るがそのままだった。
仮営業中の食堂のおじさんが津波は駅舎の最上部を越えて国道の先の高台の民家を襲ったと聞き想像を絶する。
はまなすステーションと呼ばれて平成8年に完成したまだ新しい施設です。すっかり雑草に占拠されたホームにはハマナスの赤い実が光っていた。
目の前の海は穏やかで何事もなかったようです。物産館でトマトを買い清水の方と齧ってバスを待った。
南三陸町に入ると活気がある雰囲気になった。スポーツセンターにはボランティアの受け入れ事務所も見られる。

大谷海岸駅
みぎの黒い土嚢が海岸線
 
 
志津川駅より
右側の鉄骨の建物が3階建て防災庁舎
志津川駅で途中下車した。3階建て防災庁舎の屋上の床上約2メートルの高さまで津波にのまれた。助かった職員はアンテナにつかまることができた人と手すりで必死に耐えられた人たちだけだったという。赤くさびた鉄骨と階段だけが更地に呆然と建っている。
コンクリートの基礎だけが建物があった痕跡を残す。それも雑草に隠されている。まだ1年半というのに。遮る物もないので直線で南三陸町の庁舎を目指して歩く。高台には志津川中学校の高台が見える。道路わきの杉が海水で枯れている。津波が襲った高さが一目で分かる。
 庁舎裏の南三陸町さんさん商店街は30店舗ほどが入った仮の商店街です。平日でしたが多くの人が訪れていました。名物のきらきら丼を頂き、
三陸わかめをお土産に買った。真夏の太陽にキクイモの黄色い花が満開だった。志津川駅に戻り壊れた駅舎の地下道でバスを待つと地元の老人がやってきて話し相手になってくれた。
若者たちの死を訥々と話してくれた。
バスに揺られて柳津駅に着く。
気仙沼線は北上川を大河を渡り小牛田駅に着く、松島の美景を車窓よりちらりと眺め仙台の雑踏に踏み込んだ。
青春18キップを使いたいが疲れたので新幹線で帰った。強烈に暑い一日だった。
旅の疲れはいつも快く一晩の睡眠で解消されるが、今回は重くのしかかる物があった。
被災地の人たちの悩みを少しでも背負って帰れたら幸いです。
この旅を如何に消化し、どう伝えたらよいか大きな宿題だ。

 
ポツンと残された志津川駅