マイナー武将列伝・全国編  

 
 
 
 足利義栄   (改訂版)
 あしかが よしひで 
 生 没 年  1538〜1568    
 1540〜(生年両説あり)
 主君・所属  足利将軍家 
 活躍の場など 室町幕府第14代将軍 (在位7ヶ月)
 
 
 義勝。従五位下左馬頭。法号光徳院。道号玉山。
 
 室町幕府最後の将軍は、言わずとしれた第15代将軍足利義昭。
 足利義昭は兄であった第13代将軍足利義輝が松永父子・三好三人衆らに暗殺されると *1
 僧籍から還俗し室町幕府再興を宣言、朝倉家を頼ったのち織田信長の援助を受け将軍職に就く。
 それは皆さんも既にご存じの事かと思います。
 でも。ちょっと、まった!
 義輝が第13代将軍で義昭が第15代将軍なら、真ん中の第14代将軍はどうした?
 それが本編の足利義栄なのである。
 
 足利幕府第11代将軍義澄の子義晴が第12代将軍。
 義晴の子が義輝と義昭。
 義栄は、義澄のもう一人の子(つまり義晴の弟)義維の子であり、彼もまた将軍家の一員である。
 義栄は、義輝が暗殺されたあと篠原長房・三好康長らに擁され、第14代将軍なるべく画策する。
 
 松永父子・三好三人衆とひとくくりで書いたが、
 松永久秀と久通の父子、
 三好長逸・三好政康・岩成友通の三人衆、
 三好長慶の死後、宗家を継ぐ義継。
 それぞれが同じ意思・目的を持っていた訳ではなく、同族が互いにそれぞれの思惑で
 手を取ったり離れたりしていた様だ。
 そのうえ、三好の一族はよく名前を変える。
 誰がどう繋がって、どう反目したか?
 人名図や相関図を眺めながら書物を読まないと行き詰ってしまいそうである。
 織田信長は松永久秀が将軍殺したと評したが、手を下したのは子の久通であり、久秀がどう関与していたか否か?
 論議は別れるが本題から外れるので割愛。
 
 話を戻す。  
 足利幕府の将軍は第10代義稙、第11代義澄、第12代義晴、第13代義輝…と続く。
 詳しく述べるならば…第10代義稙、第11代義澄、復職10代義稙、第12代義晴、第13代義輝…
 義澄は復権をした義稙に将軍職を追われ近江に逃れる。
 だが義稙はその後、管領細川高国の専横と相いれず退く。
 義澄の子が義晴と義維。
 義維は義稙の猶子となり将軍の後継を望み上洛を図った、将軍職は義晴が継いだ。
 
 義維の子が義栄。はじめ義勝と名乗る(義親とも伝わる)。母は大内氏。
 当初、阿波国で過ごす。 
 永禄8年(1565)5月、義輝が殺害される。
 義輝暗殺後、最も次の将軍候補に近いのが、仏門に入っていた義輝の弟である一乗院門跡覚慶と鹿苑院院主周ロ。
 周ロは京へ向かう途上で殺害されてしまい、覚慶も興福寺で幽閉されてしまう。
 義栄は義輝の従弟であり将軍候補にも相応しい。 
 この時は未だ義栄ではなくて義勝と名乗っていた様だが、便宜上義栄に統一して記します。
 篠原長房・三好康長に推されて上洛を試みる。
 その後、覚慶は興福寺を脱出し義秋(のち義昭)と名を変え将軍候補に名乗りを上げる。 
  以降、便宜上足利義秋を足利義昭に統一。
 
 義栄の動向。
 永禄9年(1566年)6月、淡路国に渡海。 
 同9月には摂津国に入る。 
 
   (九月中頃…の次の行)
    同廿三日に阿州公方様越水城へ御出候也。  
    同十二月に富田庄普門寺へ御座を被替候也  
               (『細川両家記』 永禄9年9月の記載)
 
 (越水城は摂津国武庫郡、現兵庫県西宮市)
 
 
    澤路備前入道来、伊曾與右衛門方より三好日向守返事到、  
    山科之公用、河州之公方へ渡申候云々、  
               (『言継卿記』廿七 永禄9年9月13日条)
 
 (澤路備前入道、伊曾與右衛門…共に不明。 三好日向守…三好長逸か。)
 
 
    一昨日廿三日、夜半時分阿州公方攝州へ御着岸云々、  
    左馬頭入道殿御息、卅一才、同御十四才御三人云々  
               (『言継卿記』廿七 永禄9年9月25日条)
 
 どうも年齢が合わない様ではあるが… 
 この時期、義維も存命であり、時期実際に堺公方・平島公方などの呼称がある様である。
 とすれば阿州公方=義維で一緒に摂津に到着したのか?
 左馬頭入道殿=義栄ともみえるが義栄が左馬頭に任官されたのは永禄10年。まだ任官前だ。
 阿州公方=左馬頭入道殿=義維なのだろか?
 阿州公方=左馬頭入道殿=義維だとすると…
 御息…つまり義維の子で31歳の義栄、もう一人14歳の三人。
 義栄の生年には1538年と1540年の二説あるようだが、どちらも31歳にはみたない。
 山科言継の誤りか?本当は生年もう少し早いのか?
 
 ともかく将軍跡継ぎレースは既に始まっており、対抗馬の義秋(後の義昭)は既に左馬頭に任官されていた。
 永禄9年(1566) 12月、従五位下に叙す。
 永禄10年(1567) 1月、左馬頭に任官。
 同11月17日、将軍宣下を朝廷に願い出るも却下された模様。
  (参照『晴右記』 活字化されてしない毛筆文書しかなく、くずし字を正確に読み取る自信がない為)
  (原文紹介は割愛させて頂きます。ご容赦下さい。)
 この頃、名を義栄と改めた。
 
 永禄11年(1568) 2月、念願の征夷大将軍の宣下が下る。
 
    自頭中将将軍宣下之一通到、  
     追上啓  
      将軍宣下事候、同可得其御意候也、  
    来八日可宣下事、可令参陣給、者依天気上啓如件、  
     二月二日        右中将重通  
      謹上 帥中納言殿、  
               (『言継卿記』廿九 永禄11年2月2日条)
 
 以降、宣下の準備で慌ただしそうな気配の内容が『言継卿記』に続いている。
 
 ともかく永禄11年(1568) 2月 8日、義栄は摂津富田の普賢寺で征夷大将軍宣下をうけた。
 
 だが、畿内は相変わらず騒々しい。
 義栄自信も体に腫瘍ができたようで大きな活動ができず京には入れなかった。
 そうこうしているうちに織田信長に担がれた足利義昭が入京して来た。
 
 永禄11年(1568)10月18日、足利義昭に統一征夷大将軍宣下。
 公家たちの関心も義栄から織田信長・足利義昭へ移ってしまい、義栄の動向が不鮮明になる。
 
 義栄は病の悪化で亡くなってしまうのだが、その時期が定かでない定かではない。
 あまり確かな文献が見当たらないので、多くの説ができてしまっている様だ。
 亡くなった場所も定かではない。諸説ある。
 阿波に帰り亡くなったかもしれないし、摂津で病床のまま亡くなったのかもしれない。
 当初、「三好軍とともに四国へ渡る途中、失意のうちに病死してしまう」と書いたが、
 それも確実なものでもない様だ。
 義栄が亡くなった為、将軍職が空席となり義昭に宣下が下ったものと考えていたが、
 義栄が亡くなる前に将軍職を解任され、義昭に将軍職が渡ったとされる説もある様だ。
 
 いずれにせよ、入京する事無くその任を終えた事になる様だ。
 足利幕府後期の将軍はみな御所以外の地で死んでいる。
 ところがそれ以上。 
 この将軍だけは一度も御所に足を踏み入れることなく、この世を去ったのだった。
 
 「征夷大将軍をよくマイナー呼ばわりする事は憚られる事でもあるが、このシリーズの最初に手掛ける
 という事でご容赦…」というのが、初版の稿であるが…
 いずれにせよ、定かでない事が多い征夷大将軍である。
 
 不明な点、新たな参考文献の入手が出来たら改訂してい来たます…という事でご容赦。
 
 
 
 補足 
 
 
 
 
 松永久秀について「将軍を殺し・主家を滅ぼし・大仏を焼き」
 人が成し得ない三つの行為を行ったと信長が評した逸話は
 著名であるが、どうやら冤罪だという見方が出てきている。
 
 参考文献 
 
 
 
 
 
 
 
 
    
『群書系図部集』第二 (編:塙保己一刊 刊:続群書類従完成会)
『新訂増補 言継卿記』巻四 (著:山科言継 刊:続群書類従完成会)
『細川両家記』群書類従 第二十輯 合戦部 (編:塙保己一刊 刊:続群書類従完成会)
『晴右記』文科大学史誌叢書 (編:勧修寺晴右 刊:富山房)
『戦国人名辞典』コンパクト版 (編:阿部猛・西村圭子 刊:新人物往来社)
『戦国三好氏と篠原長房』中世武士選書 17 (著:若松町和三郎 :戎光祥出版)
『三好一族と織田信長』中世武士選書 31 (著:天野忠幸 刊:戎光祥出版)
『足利義昭と織田信長』中世武士選書 40 (著:久野雅司 刊:戎光祥出版)
   



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