マイナー武将列伝・全国編 




 遊佐続光 
 ゆさ つぐみつ 
 生没年   ?〜1581   主君・所属   能登畠山家 
主な活躍の場  畠山七人衆(能登北畠家家老) 
 
 遊佐美作続光。  能登畠山家家老であり、畠山七人衆筆頭として能登の実権の掌握を謀る。
 能登畠山家は南北朝時代から守護職をつとめてきた名家である。
 その中で遊佐氏は代々畠山家を補佐する地位にあった。
 能登守護職である畠山家は室町幕府のなかでも幕政に参与できるほどの名家であったが、幕府の威光が 失墜していくと同様にその力も衰えていった。
 畠山義総の頃にも内紛があり、その次の家督を継いだ畠山義続は相続当時まだ若年であった。  遊佐続光はそんな畠山家を補佐する遊佐・神保・平・誉田四家老の筆頭として国政を采配していたよう である。
 だが、彼の政治は失策を重ね他の重臣や領民からはかなり不興をかっていたらしい。
 それで終われば只の凡将と呼ばれただけにすぎなかっただろうが、権力を握る者がそれで済ませるわけ がない。
 権力を握る者が誰しもするように彼もまた彼に反対する者を弾圧し粛正していった。
 そして一気に敵対者を殲滅させようと越中から傭兵を領内に攻め込ませるという暴挙にでた。
 そこまでしたら、ばれるだろう。
 そしてやはり・・・ばれた。
 飯川義宗が畠山義続に事実を知らせ遊佐続光を失脚させるとともに、長続連・綱連父子や温井総貞らが 越中から傭兵を撃退させた。
 これにより遊佐続光は越中へ逃亡した。

 さらに越後・加賀を経て遊佐続光は天文十九年(1550)能登進入をはかる。
 彼は松根城の洲崎兵庫に援軍を頼み、兵五千を率いて進行したが、このとき彼は、「主君に対して他意 があってのことではない。  自分を妬み逆心の汚名を着せた同僚へ恨みを晴らす為にやって来た。」と、畠山義続に告げたという。
 この進行の決着の詳細はよく伝わっていない。
 だが、何らかの和解が為された様子で、遊佐続光は元の家老職に戻り、飯川・長・温井らの家臣らにも 脱落者はでていない。
 只一人、この戦が関与しているかはわからないが畠山義続は、その家督を子の義綱に譲っている。

 能登は再び遊佐・温井・長氏ら家臣が実権を握り国政を左右していく。
 次第に温井氏の力が強くなっていき、遊佐続光は再び失脚。
 今度は河内の同族 (遊佐氏は他の畠山家に於いても家老職を務めている。  河内畠山家は畠山家の宗家であり、河内の同族とは河内畠山家家老の遊佐氏の一族であろう)  に応援を頼み七尾城に迫るが激戦の末、大敗する。
 興味を引かれるのは、この後、遊佐続光は三度家老職として復職するのである。
 たとえ「主君に対して他意はない」と言い張っても、兵を率い領国内に侵攻したのである。
 反逆罪には違いない。
 それが二度も許され、支配力は落ちるとはいえ元の重職に復帰しているのである。  この男の魅力か、遊佐氏の家名か畠山義続・義綱の寛容さか?

 守護畠山義綱はどうやら凡庸な人物であったらしい。
 前守護畠山義続は出家しながらもの畠山義綱の後見として守護権威の復権を謀っていたようだ。
 畠山義続は守護職を離れたことを逆手に自由な身で暗躍をはかり、どうやら重臣同士のもめ事を増長させ 弱体化させるのに乗じて復権を考えていたように思える。  そして、それがまた能登の内紛を複雑なものにしていく。
 能登は畠山守護派・遊佐派・温井派・長派に四分される。  そして遊佐氏はその後ろ盾を上杉氏に、温井氏は一向一揆に、長氏は織田氏へと求めていった。
 弘治二年(1556)温井総貞は畠山義綱の幽閉・守護職更迭を謀るが、逆に畠山義綱にばれ暗殺されて しまう。
 温井総貞の子景隆と一族は加賀へ逃れ、一揆衆の協力を仰ぎ能登へ侵攻。  能登の南、羽咋一帯を勢力下に置いた。
    (やがて、この温井景隆も和解がなり、家老職に復帰するが。)
 ともあれ温井氏を追放することに成功した畠山義続・義綱は次第に力を増し専制をはかるが、逆に重臣 たちからの反発をもろにかってしまい永禄九年(1566)親子ともども追放されてしまう。
 かわりに畠山義隆が守護職を継いだが、もはや守護職としての権威はない。  畠山義隆も何者かの手によって毒殺される。
 遊佐続光が張本人だと言われているが、長続連とも、復職した温井景隆とも言われている。
 畠山義隆のあとは畠山義春(春王丸)が継いだ。

 能登国内で内紛が続きさながら小三国志の様相を呈しているあいだ、着々と勢力を伸ばしてきたのが浅井 ・朝倉を滅ぼし加賀に迫る織田信長と越後から越中へ兵をすすめる上杉謙信である。
 まず上杉謙信が能登へ侵攻する。
 この時ばかりは遊佐・温井・長氏も連携して上杉勢に抗している。
 が、所詮越後の虎にかなうべくもない。  徐々に支城は落とされていった。
 残るのは七尾城を残すのみとなるが、ここで最後の抵抗を続ける能登勢はなかなかしぶとかった。
 上杉謙信は苛立ちはじめ、一つの謀略を用いた。
 遊佐続光に対して領地の安堵と恩賞を引き替えに内応を勧める自筆の書状を送ったのだ。
 実はこの時既に城主畠山義春は病死しており、温井景隆ら重臣は勝ち目にない能登を死守することに固執 しているわけではない。
 抗戦派の主流は織田信長に支援を求めることを主張する長続連・綱連父子のみである。
 まして遊佐続光は先に追放されていた時分には越後にも滞在しており、上杉謙信に義理はあっても 織田信長に対してはない。
 長続連一派さえ説得できれば開城は簡単なのである。
 既に長続連は織田信長に支援を求め、事実信長は能登に向かい兵を発していた。
 急を要する事態に遊佐続光は温井景隆と示し合わせ長続連一派の殲滅に乗り出した。
 そして織田信長に援軍を要請しに能登を離れていた長続連の子連竜以外の長一族を全滅させてしまった。
 こうして敢えなく七尾城は開城し、能登は全て上杉謙信の手におちたのである。
    (この後、七尾城開城の情報を得るのが遅れた織田軍は九頭竜川まで進軍。 上杉軍と対峙することを恐れ退散する。)

 能登は上杉の庇護のもと能登の旧臣によって治められることになったが、遊佐続光だけは長氏の遺臣の 復讐から身を守るためとの理由で越後にとどめられることとなった。
 だが遊佐続光は帰国を望んでいたのであろう。 上杉謙信の死後、すぐ能登に戻る。
 やがて長続連の遺子連竜が、そして信長勢が能登に侵攻することとなり、遊佐続光とその一族は長連竜 によって捕らえられ首をはねられてしまった。

 能登は地理的な条件・国力などから織田・上杉・武田のような戦国の雄は輩出できなかったものの、その 武将たちは己の欲望と技量をぎりぎりまで試した、戦国武将の典型ともいえよう。

  補足   




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