マイナー武将列伝・全国編 




 三木自綱 
 みつき これつな 
 生没年   1540〜1587   主君・所属    
主な活躍の場  飛騨国 
 
   
 三木自綱。 従五位下飛騨守。 姉小路頼綱(よりつな)を名乗る。 
 三木氏はもともと飛騨守護京極氏の被官。

 建武の中興の折、姉小路氏が飛騨国司に任ぜられた。 
 国司というものは律令制度に基づく任官であり室町時代においては有名無実のものである。  実際に国を任されていたのは守護であり、 (もっともその守護職でさえ戦国期にはほとんど無力化している。) 本編の舞台となる時期では、 皆が勝手に何々守だの何々介だの公然と詐称できた代物である。  建武の中興という一時期に於いてのみ、その力を復活させられた制度であった。
 
 とにかく、その建武の中興の折、公家の姉小路氏が飛騨に下向して国司に任ぜられた。
 もちろん、姉小路氏には地元の国人達を押さえつける武力など無い。
 本来ならすぐにでも追い出されてしまうのだろうが(運良く?)姉小路氏は飛騨に土着した。 
 それまでの全国規模で行われた戦乱などでも大きな戦や利権荒いが起きなかったからであろうか。
 それとも飛騨という土地柄であろうか。
 まだ、国司という位が尊まれたのであろう。
 国人たちがその威光にあやかろうと奉ったのかもしれない。
 
 だがやはり武力を持たない権力者というものはあっけない。  わずか四代で滅んだ。 
 室町幕府が南朝勢力の掃討作戦に出た為、飛騨の国も遂に幕府軍が侵入したのである。
 応永一八年(1411)、将軍義持の命を受けた京極高員(たかかず)は飛騨 小島城を攻め、4代目国司姉小路尹綱(これつな)は討死して飛騨姉小路氏は滅んだ。
 そして姉小路氏にかわって京極高員が飛騨守護に任ぜられたのである。
 
 京極高員は既に数ヶ国の守護職を兼ねていたため、実際は数人の代官を於いて飛騨を納めさせていた。  その数人の代官のうち竹原郡を任されていたのが、近江佐々木氏の末裔といわれる三木氏である。
 三木氏も他の守護代・代官などと同様、守護の支配力が弱くなると次第に任地を横領して行き3代目直頼 の頃には益田郡も支配下におさめていた。
 その子が良頼、孫に当たるのが自綱である。
 
 自綱の頃が三木氏の最盛期であった。
 天神山の高山氏、神岡の江馬氏を滅ぼし鍋山の鍋山氏を乗っ取り飛騨に覇権を築いた。(永禄〜天正)
 そしてあろうことか突然 「儂は姉小路頼綱だ。」 と、言い出した。
 姉小路とは飛騨国司の姉小路氏のことである。
 もちろん後裔でもない。全く縁もゆかりも無い。
 唯一、つながりと言えば三木氏は姉小路氏の仇の一族というぐらいである。
 飛騨の覇権を正統化させるためであろうか。 北条早雲の例もあるし。
 
 この「儂は姉小路頼綱だ。」は結構、本気であった。
 京の御所にも働きかけた。「儂は姉小路頼綱だ。」と。
 そして従五位下飛騨守を賜る。 姉小路飛騨守誕生である。
 公家の姉小路氏の末裔でなくとも朝廷公認の国司姉小路氏である。
 しかもこの男、それではあきたらず「儂は姉小路大納言頼綱だ。」と、名乗っていたらしい。
 時の権力者、織田信長にも何度か拝謁している。
 信長公記には、しばしば 「飛騨国司」 「姉小路中納言」 という文字が見える。
 国司はともかく中納言とは。  信長に対して遠慮したのか。
 ちなみに本家国司姉小路氏は尹綱の代で閉じたが孫の基綱(本物)により再興する。
 しかしわずか数代で滅んだ。

 さて、飛騨の太守へ一気に掛け上った三木自綱、駆け下りるのも早い。
 自綱の弟の顕綱は鍋山安室の養子となったが、養父である安室を毒殺して鍋山家を乗っ取っている。
 顕綱の次の狙いは兄である自分も害して自らが飛騨国司になるに違いない。  と、そう疑いを持ち顕綱を殺してしまう。
 さらに自分の嫡男・信綱も顕綱に内通したとして殺してしまった。
 二人が本当に謀反を企んでいたのか、単なる自綱の疑心暗鬼がもたらした悲劇か、よくはわからない。
 
 信長の死後、佐々成政に与して羽柴秀吉に抗する。
 結果、秀吉麾下の金森長近に攻められ降伏、京で隠棲し生涯を閉じた。
 尚、二男秀綱は自害。 結局、この姉小路氏も短命であった。

 
  補足   




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