可児才蔵。 笹の才蔵として名を馳せた。 美濃の出身という。
槍の名手で宝蔵院胤栄に学んだという。
主君を転々と変えた男である。
初めは斎藤龍興。 のち柴田勝家、明智光秀、織田信孝。 さらに羽柴秀次、前田利家、福島正則。
秀次の元では長久手の戦いに従軍。
前田利家に仕えた末盛の戦いで奥村永福の子・助十郎を助太刀。
福島正則のもとでは関ヶ原の戦いで活躍。
戦後の首実検の際、才蔵が主張した首の数だけの首がない。
才蔵が誇張して言っているのだと疑う声も挙がる。
それもそのはず、才蔵が討ち取ったと主張した首の数は17、一番多いのである。
17首の証拠がないと言われた才蔵は、
「いちいち首を持ち帰るのも面倒ゆえ、自分が討ち取った首は口に中に笹の葉を噛ませておいた。」
と述べる。
他の武将から持ち込まれた首の中に笹を噛んだ首が幾つかあり、それを合わせると実に17首。
東軍随一の笹首17と讃えられ、以降「笹の才蔵」の名を轟かした。
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