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細野壱岐守藤敦。 九郎右衛門守清。 北勢の長野工藤氏の一族、細野藤光の子。
北勢の長野氏は藤原南工藤氏の流れをくむ土豪である。
もともと南朝に属していたが途中から北朝に転じ、南朝方の伊勢国司北畠氏と衝突を繰り返している。
第15代当主藤定の時に北畠具教と和解。
具教の子藤教を養嗣子とし家督を継がせ北畠の一門となった。
藤光は第14代当主稙藤の弟であり、藤敦は長野家の一門であるとともに家老の筆頭でもあった。
やがて、織田信長の伊勢侵攻が始まる。
同じく北勢の有力武家であり北畠氏とも姻戚関係にある神戸氏が信長の子信孝を養嗣子として迎え入れ、
信長の軍門に降った。
長野氏もその進退を迫られた。
北畠氏の支配下にあるものの、つい近年までは敵対していたのである。
まして押しつけられた(譜代の家臣からみて)主君はとても名君と仰げる器量ではない。
織田方につくか、北畠の一門として忠義を示すかである。
細野藤敦は北畠の一門というよりも伊勢の国人として織田の侵攻をくい止めようとしていた。
藤敦を中心に長野氏は徹底抗戦をし織田方に一歩もひけをとらなかった。
だが、そんな藤敦を当主長野藤教は異心ありとして疑った為、藤敦は藤教を攻め追放してしまう。
長野氏は一門協議の上、信長に降り、信長の弟信包を長野氏の後継者として仰ぐこととなった。
しかし、信包が伊勢を離れた隙をついて藤敦は長野城を急襲、奪回する。
今度は滝川一益の子八麿(八丸)を藤敦の養嗣子として迎えることで和解。
だが、やはり信長の軍門に降ることを潔しとせず、抵抗を続け遂に逃亡する。
のち秀吉に仕え、伏見城松の丸の守将となり秀吉の側室松の丸殿(京極高次の娘)の家司となった。
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