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長坂信政。 彦五郎。 血槍九郎、茶利九郎。
長坂氏は清和源氏の小笠原氏支流である九郎守重が足利将軍家に仕え山城国長坂村に住したことから
長坂姓を称したという。
守重の三男大炊頭信重も足利将軍家に仕え、さらにその子が信政であるという。
守重は後年三河国池端村に移り住み、信重も三河国坂戸村に住んだという。
足利将軍家にどのように仕え、なにゆえ松平家に仕えるようになったのかは不明。
あるいは誤伝か。
はっきりと歴史に登場するのはやはり信政からであろう。
しかし一氏を主とすることに不満なのか再び牢人、今度は増田長盛に仕える。
三河国の雄、松平清康に仕え戦功を重ねる。
戦場に進む度に「その槍を血で濡らさぬ事無し」と称賛され、清康の仰せにより姓を血槍と改め
皆朱の槍をゆるされたという。
清康の死後は広忠に仕え、天文十七年(1548)三河国西野においての織田勢との戦いで
一番に馳せ槍をもって盾を破った。
(第2次小豆坂の戦い?−−−小豆坂の戦いは天文十一年説や、二度あったとする説、
そもそも無かったとする説など諸説あります)
さらに広忠死後は元康(徳川家康)に近侍した。
松平家三代にわたって戦功を重ねたのである。
戦場に於いて生涯敵首九十三級を得て、これを讃えて正月には93の鏡餅を並べ首餅と唱えた。
その子信宅も家康に仕え姉川・長久手・小田原など歴戦した勇士となった。
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