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吉良義昭。
吉良家といえば赤穂浪士討ち入りの吉良上野介を思い浮かべる方も多いと思われます。
ここでいう吉良氏は、そう。 その吉良氏のことです。
と、言っても直系ではない。
吉良家は足利将軍家と祖を同じくする名門である。
足利尊氏の5代前の祖義氏の長子長氏が三河国吉良庄の地頭として土着したことに始まる。
庶子扱いであったため足利家の家督を嗣ぐことができなかったようである。
そして長氏の子満氏、孫貞義へと嗣がれていくが、満氏の弟国氏を祖とするのが今川氏である。
吉良家は吉良庄を中心に三河・遠江へと勢力圏を伸ばしていった。
だが、今川氏の遠江進出によって遠江の拠点は奪われ西三河のみを勢力下においていた。
また、このころは東西に家を分け東条吉良氏、西条吉良氏と称されていた。
吉良義昭の父義尭は西尾城を居城とした西条吉良氏の当主であった。
義昭には兄がおり長兄義郷が家督を嗣ぎ、次兄義安は東条吉良家へ養子に赴き家督を嗣ぐはずであった。
だが義郷が天文六年(1537)に死亡。(諸説あり)
次兄義安が西条吉良家に戻り家督を嗣ぐ。
今度は東条吉良家の当主持氏が死亡したので義安はあらためて東条吉良氏を嗣ぐことになった。
こうして西条吉良家の家督が義昭のもとへ転がり込んできたのである。
さて三河にも今川氏が進出してくる。
西からは織田信秀(織田信長の父)もしきりに三河侵攻を練っている。
また同じ三河国内の松平清康(徳川家康の祖父)も侮れない。
吉良氏は今川氏とたびたび小競り合いを繰り返してきてはいたが、基本的には今川氏寄りであったようだ。
同族のよしみか。
東西競合に挟まれどっちつかずの状態ではあるが、どうせなら同族に・・・というのが本音か。
とは言うものの心底今川氏を親類のよしみとは思えない状態ではあったにちがいない。
現に義安は織田に通じた。(と、思われた?)
今川氏に攻められ囚われのみとなる。
そうして義昭のもとに東条吉良氏の支配権が転がり込んできた。
弘治二年(1556)尾張守護斯波義銀と和睦。
もちろん斯波義銀の背後は織田信長その人である。
永禄三年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が討たれる。
吉良氏も今川氏の準支配からのがれることができたのである。
この男の前半はつくづくラッキーであった。
永禄四年(1561)、義昭は居城を東条城に移した。
同じく今川家の支配から独立した松平家康(徳川家康)と抗争を起こすが敗退。
永禄六年(1563)、三河の一向一揆に乗じて再度家康に立ち向かうが逆に攻められ
東条城は落城、逃亡する。
以降、詳細はわからないが慶長五年(1600)摂津国芥川で没したという。
吉良家は一旦途絶えるが義安が返り咲く。
義安の義定は家康に取り立てられ、その子義弥は高家としての処遇を受けた。
その孫が忠臣蔵の上野介義央である。
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