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神保氏は惟宗氏の裔で遊佐氏とと共に畠山氏に仕える譜代の家である。
越中守護畠山氏の守護代となったのが越中神保氏の祖。
越中神保氏は慶宗の代に越後の長尾為景に敗れ一度滅んで?しまう。
(長尾為景は上杉謙信の実父)
しかし完全に途絶えたわけではなく、神保長職の代に再び歴史の舞台へ顔を出す。
だが、この神保長職の出自がちょっとわからない。
神保慶宗の一族であることは確かなのであるけれども、子であるのか?孫であるのか?
それとも甥にあたるのか?
とにかく書籍では子もしくは孫とされるものもあるようなので、そのあたりということで
ここはお茶を濁しましょう。
神保長職は富山城を本拠とし、復権を計る。
この頃、越中は松倉城の椎名康胤が越後の上杉謙信の威を借り勢力を延ばしていた。
(椎名氏も同じく長尾為景に破れた組なのであるが、こちらは降伏、従属という形をとっていた。)
椎名康胤は上杉謙信に応援をもとめ永禄三年(1560)、神保長職はは敗退し富山城を捨て増山城へ逃れた。
さて、ここまでの歴史はすっきりしていてわかりやすい。
越中守護畠山氏が没落し、その被官であった神保・椎名氏が対立し、椎名氏は近隣勢力の力をかりて神保を追う。
よくある図式。
越中は一向宗の勢力が強い国である。
神保長職は一向一揆、また武田信玄と手を組み巻き返しを計る。
一向一揆と言えば上杉謙信とも対立しており、武田信玄と上杉謙信との確執も周知の通りでしょう。
代理戦争にも似た体を成すのであるが…
永禄三年頃、今度は椎名康胤が武田信玄と手を組むことになった。
逆に神保長職が上杉謙信と手を組み一向一揆と対立してしまう。
椎名康胤は上杉謙信に攻められ松倉城を追われ富山城に拠ったが、こちらも攻め落とされてしまう。
越中は上杉謙信勢力下の地となり、そこに神保長職がいた。
なにがなんだかよくわからないが、それが戦国の世というものであろう。
元亀二年(1571)、入道して宗昌と号した。
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