マイナー武将列伝・全国編 




 今川氏豊 
 いまがわ うじとよ  
 生没年   ?〜?   主君・所属   今川氏親 
活躍の場など  那古野城主・今川義元の末弟 
 
 
 左馬助。竹王丸。  
 またまた実体のよく解らない武将です。
 今川氏豊=今川竹王丸=那古野城主今川某。
 この項は上記が同一人物であるという前提に基づいておりますが確証はありません。
 同名異人、或いは全く無関係という可能性もありますので、その点ふまえてお読みください。
 
 織田vs今川。
 桶狭間の戦いで誰もが知っている事ですが、何故、今川義元が尾張に侵攻したのか?
 もともと今川義元は天下を目指し京へ上るつもりであり、本来尾張は通過点に過ぎなかった。
 私が子供の頃から、そういう前提で小説もドラマも成り立っていた。
 近年では今川義元に天下の狙いがあったにせよ無かったにせよ尾張侵攻は尾張の領地化を狙っていたと 考える向きが有力になってきました。
 領地化ではなく、単に尾張東部の領地を固めるための威嚇だという説も出ています。
 
 私自身は尾張侵攻は尾張の領地化を狙っていたと考えてもいるのです。
 では、尾張の領地化の先にはやはり京が?
 どうでしょうか?
 尾張領地化の先に京へ侵攻の大志があったとしても、現実的には尾張領地化→地盤固め、が最優先だと思います。
 尾張領地化は今川家にとって、実現せねばならぬ問題のひとつであると感じているのです。
 今川家にとってそれは「侵攻」ではなく「領地回復」にも等しいのですから。
 
 今川義元は天下を目指し京へ上るつもりであった。
 それを前提に描かれた小説やドラマは、今川氏が突如として尾張に侵攻してきたかのような印象を与えるものが少なくありません。
 実は今川氏は何度も尾張−三河国境へ侵攻しています。
 尾張の地は尾張の斯波氏・織田氏の勢力だけではなく三河の松平氏や松平氏を制した今川氏の勢力が入り組んでいました。
 
 織田信長が最初に与えられ青春期を過ごした城が那古野城。
 この信長の居城であった那古野城は初代城主は今川竹王丸とも伝えられています。
 
 
 『尾張國誌』から関連性のありそうな部分を抜き出してみましょう。
 
   大永年中 今川氏豊那古野に城を築き柳の丸と號く
 
   始め名古屋氏の人此地を領して城を築くと云ふ。
 
   次ぎに大永年間今川左馬助氏豊の居城となる。
   氏豊は今川氏親の末子にして義元の弟に当たる。
   大永十二年八月当国斯波義達遠州に於て今川氏と戦ひ、敗れ降りて帰国す、
   これより斯波氏威なし、
   よりて今川氏親末子氏豊を此地に置き尾張を計らしめしが如し。
 
   氏豊、義達の娘即義統の妹を娶る。
 
   享禄五年春海東郡勝幡城主織田信秀計を以つて城内に入り、(中略) 当城を攻めて陥る。
   氏豊京に逃る。

 
 
 今川氏豊が那古野に城、柳の丸を築く。
 名古屋氏が城を築き、後に今川氏豊の居城となる。
 
 若干の違いはありますが、当初那古野城は今川氏の居城であった事が伺えます。
 
 織田信秀計を以つて城内に入り の逸話が『名古屋合戦記』に記されています。
 今川氏豊が連歌を好むことに目を付け那古野城で催される連歌会に出席し何日か逗留することを繰り返しました。
 専用の客間も宛われていたようです。
 織田信秀は何度目かの時に 本丸ニ向ヒ窓ヲ切リ開カル ・・・矢狭間まで作ってしまいました。
 今川の家臣が不審に思い今川氏豊に進言しても耳を貸さなかったようです。
  此人ニカギリ別心有ルベキト覚エズ
 今川氏豊は随分、織田信秀を信頼していたようです。
 織田信秀は風流な人だから夏の風のに開けたのであろうと。
 ある日、病気と偽って織田信秀の居城勝幡城から家臣を呼び寄せました。
 こうして自らの手勢も城中に入れることに成功すると火を放ち、見事城を乗っ取ってしまいました。
 今川氏豊は命乞いにより城を抜け出、 女方の縁を便ニシ。京都へ上ボラレケル
 
 喰うか喰われるかの戦国の世にあって、甘い判断で計略にはまり城を失ってしまった。
 情けないと評されても仕方がないような武将でした。
 
 さて、ここで幾つか疑問点。
 
 最初に今川氏豊・竹王丸・那古野城主が同一人物であるという前提に基づいてと書きました通り、幾つか不確かな点があります。
 まず『名古屋合戦記』の文章の信憑性。
 『尾張國誌』もこの部分の出典を『名古屋合戦記』や『塩尻』に求めているとあります。 
 
 実は今川氏豊。
 今川方の良質の書には登場しないそうです。
 つまり、本当に今川氏親の子か? 今川義元の弟か?
 先に述べましたように尾張守護に今川仲秋があり、その末裔ではなかろうか?
 或いは只の同姓の一族か?
 
  女方の縁を便ニシ。京都へ上ボラレケル とあるが、何故、今川本家の駿河へ戻らなかったのか?
 自らの失態で城を無くした為、駿河へ帰ることを恥じたのか?
 命を許された条件に今川に戻らぬという事が折り込まれていたのか?
 駿河今川家とは深い繋がりもなく頼ることもなかったのか?
 
 どれも不確かな事ではっきりとは見えません。
 
 
 
  補足   
 
 『言継卿記』に山科言継が飛鳥井雅綱と共に天文二年(1533)七月から八月にかけて尾張に下向し  那古屋の今川竹王丸に接した旨が記されているそうです。 
 
 『言継卿記』本分を未だ確かめてはいませんが、山科言継が勝幡城で和歌と蹴鞠の指導をおこなったとか。
 この今川竹王丸は今川氏豊であると思われます。
 
 



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