マイナー武将列伝・全国編 




 小出 吉政 
 こいで よしまさ  
 生没年   1565〜1613   主君・所属   豊臣秀吉 
活躍の場など  豊臣秀吉の従弟・岸和田、出石城主 
 
 
 小才次。信濃守、大和守、播磨守。
 祖は父、小出秀政を参照。
 
 生母榮松院は豊臣秀吉の叔母である。
 秀吉の生母なか(大政所・天瑞院)の父は関兼員とされているが、『織豊興亡史三英傑家系譜考』では 関兼員の娘として、杉原家利妻、なか、青木一薫(青木一矩父)妻、加藤清忠(加藤清正父)妻、小出秀政妻、星野成政(福島正則父)妻を 掲げている。
 譜代・子飼の家臣を持たぬ秀吉は出世するにつけ親類縁者や同郷の若者を引き入れたというが、この姻戚関係からみてもそれが伺える。
 生地も秀吉同様、尾張国中村である。
 現在、この中村の地にある中村公園には、父、秀政邸跡の碑が立てられている。
 吉政もこの地で生まれたのであろう。
 
 秀吉の馬廻衆となる。
 天正十八年(1590)、小田原城攻めに従軍。
 文禄二年(1593)、播磨国龍野城主となる。(二万石)
 龍野城は赤松氏の城であったが秀吉が播磨を抑えると蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊(秀吉の甥)と頻繁に城主が変わってきた。
 頻繁にと言ってもその面子を見ると秀吉の信任の篤い武将ばかりである。
 父秀政同様、秀吉の信頼も篤かったのであろう
 文禄四年(1595)、但馬国出石、有子城へ移る。(六万石)
 
 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦。
 吉政は父秀政、弟三尹と共に西軍に付く。
 父秀政は大坂城留守居、三弟三尹は大津城攻めに、吉政は丹後田辺城攻めに参戦した。
 一方、次弟の秀家は東軍に属し功績をあげた。
 この時、秀家の軍功によって、西軍に加わった皆も責めを免れている。
 
 慶長九年(1604)、父秀政死去。  吉政は出石を嫡男吉英に譲り岸和田城三万石を継いだ。
 
 慶長十八年(1613)、死去。
 家督は嫡男、吉英に。
 吉英は領地より一万石を叔父三尹(吉政の弟)に別け与えた。陶器一万石。
 吉英も居城を岸和田城に移すが後、出石城に戻る。  
 
  補足   
 嫡男、吉英(但馬国出石藩主、後岸和田藩主)。
 次男、吉親(但馬国出石藩主、後丹波国園部藩主)。 
 三男、吉景 
 四男、吉成 
 女子、松平忠明妻。 
 
 岸和田藩は吉英の代で断絶。 
 出石藩は吉親の代で丹波国園部へ転封。 
 以降、幕末まで続く。 
 
 
            <<主要参考書籍>>
               『尾張國誌』(東海地方史学協会)
               『尾張群書系図部集』(加藤國光編:続群書類従完成会)
               『日本系譜総覧』(日置昌一編:講談社)
               『織豊興亡史三英傑家系譜考』(早瀬晴夫:今日の話題社)
               『戦国人名事典』(新人物往来社)
               『別冊歴史読本 徳川三〇〇藩藩祖総覧』(新人物往来社)
 




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