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立花。 宮永様。
立花道雪の娘。
晩年の子である。
母は三善鑑豊の娘。
立花氏は大友氏の庶流で代々大友家の筑前方面の要として栄えていた。
七代目当主鑑載のとき主家大友氏に対し謀反を起こすが敗退、立花氏はその子善行をもって一旦断絶する。
このときの討伐軍の中心人物であった戸次鑑連(べつきあきつら)が大友宗麟の
命によって立花家の名跡を継ぎ立花道雪と名を換えた。
立花道雪は大友家きっての名将であり立花の名にも負けず筑前方面と指揮官的地位についた。
だが、彼にはその地位を継ぐべき嗣子がいなかった。
天正三年(1575)と言えば、道雪は既に六十三歳。
この年、彼は愛娘に家督を譲る。
君、わずか七歳の女城主の誕生である。
道雪はまだ健在であり家督と言っても形の上の事で采配の権限もあるわけではない。
しかし、たとえ名ばかりとはいうものの道雪に事が起きた場合は立花家の命運を握ることになるわけだ。
この幼子にかかる重圧と期待はいかばかりのものであったのであろうか。
さて数年後、道雪は同じく大友家の重鎮高橋紹運の息子統虎(むねとら)に惚れ
込んでしまう。
統虎は嫡男であり将来は高橋家を継ぐべき身であるのだが道雪の強い願いに紹運も折れ、統虎は
の婿として立花家へ養子に入った。
これが立花宗茂である。
こうして幼い姫君の双肩に掛かっていた立花家は若き夫婦が支え合っていくことになる。
天正十三年(1585)道雪は病に倒れ、立花家の家督は宗茂・が名実共に受け継いだ。
その後、薩摩の雄・島津氏が九州全土を統一せんと北上、大友氏と激突する。
全体の戦況は大友氏の分が悪かったが宗茂は立花城を死守。
羽柴秀吉の島津討伐の際にも援護し秀吉から感状を与えられる。
さらに13万石を与えられ柳川城に入城。
大友家の一重臣から秀吉麾下の大名となる。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでは西軍に荷担した為、戦後所領を没収され宗茂は浪人。
は肥後での隠棲生活を余儀なくされた。
その後宗茂は徳川家康に仕え大阪の陣を経て旧領に再び報ぜられ柳川城に復帰する。
だが、そのときの姿は無かった。
惜しいかなは肥後の地で息を引き取っていた。
慶長七年(1602)、はまだ三十四歳という若さであった。
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