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孝蔵主。
川副勝重(蒲生氏の臣)の娘。
豊臣家に仕える尼僧で、信任を得て豊臣家の奥向きの奏者となる。
豊臣秀吉はその死に際し箝口令が敷かれていた。
北政所(ねね)は献身的な妻でもあり夫の死を悼むのは当然のことであるが、政治的な画策から
おおっぴらに悲しんではいられないのである。
しかも、悪いこととは重なるもので秀吉の死の直前には北政所の実母朝日(秀吉の妹朝日姫とは別人)が
無くなっている。
母の死に目にも会えず、夫の亡骸の傍らにもいることができない。
そんな北政所に近侍していた孝蔵主は北政所の悲しみを一番切に感じ取っていたのではあるまいか。
のち北政所は大阪城を出て京都に移り住む。
梅久や東殿など数人の供とともに孝蔵主もそれに従った。
この時より、孝蔵主は豊臣家の奥向きの執事から北政所ただひとりの執事とかわった。
年始等では孝蔵主が朝廷や公家などへ北政所の名代として駆け回っている。
北政所が高台院の宣下を受けたのち、高台寺を建立するにあたっての用地にかかわる揉め事でも孝蔵主が
中心となって押し切っている。
徳川家康とも懇意であり政治的手腕もあったようだ。
高台院(宣下のちの北政所)が大阪へ下向したり豊国社へ参社するさいにもかならず付き添っていた。
このころ高台院にとって孝蔵主は手となり足となる、なくてはならない存在でもあったようだ。
だが、こののち孝蔵主は高台院の元を離れる。
江戸に向かい二代将軍秀忠に仕えた。
この経緯はよくわからない。
高台院と仲違いをしたのか。
徳川家からの願いで孝蔵主を引き抜いたのか。
高台院から願い出たのか。
豊臣家の崩壊直前である。
今は徳川家になびいている豊臣家恩顧の大名たちが高台院の元に結集するのを畏れた為に、高台院と孝蔵主
の切り離しを試みたと考えた方が妥当か。
ここからは作者の高台院贔屓の想像であるが、孝蔵主は江戸には行きたがらなかったのではあるまいか。
だが既に天下は豊臣家のものではなく徳川家のもの。
実際、高台院は早くから大阪城を離れているため客観的な目で世の中を見ている。
豊臣家は秀頼が一大名として名を残せばよし。
豊臣家の天下は秀吉の死と共に終わり、自分も終わった天下の存在。
豊臣家の存亡よりも夫の遺体の安寧を、豊国社や高台寺を守っていくのが自分の役目であると思っていた
のではあるまいか。
孝蔵主は辣腕家である。
このまま余生を過ごす高台院についているよりも、天下人の側に近侍していた方が未来があるといもの。
徳川家からもいい条件が出されていたに違いない。
(のち200石の知行を得ている。)
徳川家の意向の真意がどこにあるにせよ、孝蔵主にとってはいい話である。
徳川家のさそいに積極的に乗ったのはむしろ高台院。
孝蔵主も高台院の気持ちが良く理解している。
だから素直に従った。
そう想像するのはドラマチックすぎるだろうか?
なお、孝蔵主は寛永三年(1626)四月に亡くなっている。
子はなく甥の重次を養子としていた。
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