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駒姫、おいまの方。 豊臣秀次の側室。
父は出羽の最上義光の娘。
関白豊臣秀次の側室と言えばどういった境遇であったか、すぐ想像出来る方も少なくないであろう。
しかし非業の死を遂げた秀次の正室側室、娘たちの中でも彼女はまた別格であろう。
豊臣秀次は太閤豊臣秀吉の甥にあたるのだが、嗣子のいない秀吉の養子となり関白に任ぜられた男である。
やがて豊臣家の全権を(つまり天下の権を)譲られるべき男であった。
ところが関白に落ち着いた秀次を待っていたモノは過酷な運命であった。
秀吉に待望の男子が誕生したのである。
こうなると秀吉にも欲が出てくる。
我が子に跡を嗣がせたい。
自分の本当の息子に全てを譲りたい。
そうなると邪魔者となるのは既に関白となって将来を約束された秀次である。
秀吉の秀次に対する愛情は急速に冷め、ふたりの間の溝は深まる。
加えて秀次の悪評が世間に流れる。
女と酒に溺れ、執政を顧みない。
手当たり次第、気に入った女を寝所に引き入れる。
妊婦の腹を割く等々。
人々は秀次のことを殺生関白と呼んだという。
これについては様々な見解もある。
平凡な男が突如手に入れた権力に舞い上がり歯止めが利かなくなった。
秀吉の急な変わり身にストレスが溜まりヤケになった為。
全くのデマで、その後の秀吉の処置を正当化させるための秀吉の策謀。
秀吉の側近と秀次側近との、または秀吉家臣団内部の主導権争いによる犠牲等々。
その真相云々を検証するのはまた別の機会のこととして、現実には秀次はそのような悪評と謀反を理由に
関白の地位を剥奪されるのである。
そして高野山へ追放となり、自刃を命ぜられ切腹して果てる。
さらに秀次の側近、正室側室子供たちまでも三条河原で斬罪に処されたのである。
さて。
駒姫もその一人なのであるが、彼女の運命も残酷なものである。
遡ること5年前、天正十八年(1590)、南部氏の家臣であった九戸政実が背き乱となったのを
平定に向かった秀次が見初めたのが最上義光の娘、駒姫である。
未だ幼い駒姫をその時にどうのこうのとはなかったようだ。
だが、駒姫が成長して美しい娘となったので、あらためて秀次が所望したという。
この時駒姫は19歳。(諸説あり、17歳、15歳など)
かくして駒姫は山形から京へと嫁いでいったのである。
だが駒姫が京に着いたのは既に秀吉から秀次へ詰問がなされたあとの事であり、秀次は瞬く間に
関白剥奪、高野山追放、自害へと運命を流れるように歩んでいく。
つまり駒姫は嫁いできたものの、秀次と顔を合わす間も無かったに違いない。
形の上では側室であったかもしれないが実質、側室としての立場も日々もなかったのである。
しかし駒姫は形の上通り、三条河原に連れ出され、十一番目に断罪された。
五年前に見た秀次の顔を駒姫は覚えていたのだろうか。
京の華やかな町と関白の側室という自分の姿を夢見、ようやくたどり着けば幾ばくもなく捕らわれて
顔も微かに覚えているか否かの男の為に処刑される。
そんな自分の身上をいかに嘆いたか。
私たちには想像できうることだろうか。
最上義光もその経緯を理由に助命を嘆願したが間に合わなかったとも言う。
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