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豊臣秀吉の側室。一説に秀勝の生母。
「竹生島奉加帳」という文書があるらしい。
私はコレを読んだ事も目にしたこともないので詳細はわからないけれども琵琶湖上の竹生島にある
宝厳寺に伝わる古書だという。
その中に秀吉が弁財天に金品を納めたことが記されている。
そこに「南殿」「石松丸」という名が見られるようだ。
田中阿里子女史は「石松丸」を早世した秀吉の子秀勝であると指摘している。
「歴史と旅」昭和56年1月号(秋田書店)
秀吉の子秀勝は3人いると言われている。
長浜城主時代に妾腹で生ませたこの子、信長の四男於次、実姉の瑞龍院日秀(とも)の子。
秀勝(石松丸)が早世してしまったので、信長から子於次を迎え入れ同じ秀勝と名付けた。
次の秀勝(於次)も若くして他界したので瑞龍院日秀と三好吉房との次男小吉を養子に迎え入れまた秀勝と名付けたという。
だが3人目の秀勝(小吉)も二四歳の若さで戦死。
3人続けて秀勝という名を付けているのは何か意味があるのだろうか?
秀勝の名だが秀の字は秀吉の秀として勝は?
名というと姓自体が丹羽長秀と柴田勝家から一字を貰い羽柴としたエピソードがあるくらいだから、
秀勝も長秀+勝家なのだろうか?
…考え過ぎかもしれない。
勝の字そのものはありふれた字であるから、単に秀吉+勝なのだろう。
仮に長秀+勝家であったとしても3番目の秀勝は押しも押されぬ天下人なのであるから、
そんな配慮はいらないはず。
よほど最初の秀勝に思い入れがあったのに違いない。
話が逸れました。
「竹生島奉加帳」に書かれた秀勝(石松丸)の母が南殿ではなかろうか?という事である。
この秀勝(石松丸)の母は松の丸殿だという説もあるらしい。
けれども松の丸殿は天正十一年(1583)頃に秀吉の側室と言われている。
先に述べた田中女史の書では妙法寺と徳勝寺という寺に「天正四年(1576)十月に羽柴秀勝という男児が亡くなった」と証明する
文献、位牌があるそうだ。
秀勝(於次)が亀山で没っしたのは天正十三年(1585)であるからそれ以前の秀勝…つまり最初の…であろう。
そして没したの頃には七歳前後であったらしい。
すると松の丸殿は未だ若狭守護武田元明に嫁いでいた時期かと思われる。
この秀勝(石松丸)の母は松の丸殿だという説には無理が生じる。
さて、天正四年に七歳前後というと逆算して生まれたのは元亀元年(1570)前後のことであろう。
この時期に秀吉の側室にあたる女性がいたのか?
その女性が南殿なのか?
それは未だはっきりとはわからない。
秀吉とその妻ねねはとても仲むつまじい夫婦であると伝えられている。
その秀吉が浮気をしていたのか?
と、言ってもこの当時の結婚観、子作り、倫理観は現代とは違うから仲むつまじいから他に子供を作らないと言うわけではない。
もう少し年代は後になるが秀吉が長浜城主となった天正二年(1574)頃から秀吉の女狂いが始まったと言われている。
秀吉の女狂いをねねが主君である信長に愚痴をこぼし、それを信長がやんわりと諫める…。
そんな文献も残っています。
この頃秀吉は、男児1人、女児1人を生ませているらしい。
この男児1人が秀勝(石松丸)で、それを生んだのが南殿ではなかろうか。
はっきりとした文献はないのでそれはわからない。
田中女史の推論は「竹生島奉加帳」のみを元にしている。
でもやはり、そう考えるのが順当だろうと思う。
さて、上にあげた他に、もう一人の女児。
親は誰か?南殿か?
すみませんが、まだまだ勉強不足。
時間を頂きたく思います。
さらに南殿のその後はどうなったのか?
やはりこれも勉強不足。
尻切れトンボ状態で申し訳ないのですが、今回は謎を多く残したまま筆を下ろしたいと思います。
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