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山内一豊正室。
良妻賢母を称える際に必ず名を挙げられる様な女性。
彼女の詳細は不明な点が多いと言う。
名は広く「千代」とも伝わるが異説もあり、「松」と書かれたものも。
もともと「まつ」で山内一豊の妻となってから「千代」に改名したという説もある。
小説等では千代が主流であるが、近年の論文・解説書などでは松を推している様にも感じる。
ここでは知名度の方を重んじて「千代」を優先させます。
近江国、浅井家の家臣若宮喜助友興の娘と伝わる。(『寛政重修諸家譜』等)
彼女について出自不明と書かれた書も多く、上に生年を弘治三年(1557)としたが、これにも他説あり。
多くの解説書で記載されている「父が若宮友興である」という点も実は不明確。
美濃国の遠藤盛数の娘であるという説もある。
確定できるのは法号の見性院のみかも。
まったく謎だらけである。
ともかく・・・若宮説としては近江国、浅井家の家臣若宮喜助友興の娘と伝わる。
若宮友興の死後、叔母を頼り義叔父の不破重則の元で育てられた。
母は石川小四郎の娘。
永禄九年(1566)、浅井長政から若宮左馬助戦死に伴い所領を安堵する書状が、その娘まつに宛てられいるという。
左馬助=喜助(若宮友興)であれば間違いなく、名は「まつ」であろうが・・・これは「父が若宮友興or左馬助である」ことが大前提。
牧村政倫(稲葉一徹の舅?)の媒酌で山内一豊の妻となるという話もあるが、これも定かではない。
遠藤説では美濃郡上八幡の遠藤盛数の娘として生まれている。
遠藤盛数は八幡城主とされるので、この当時の貧窮した山内一豊の妻として釣合いの取れる縁談ではったのか?
遠藤説での疑問の一つだと思う。
戦国の世には少なく無いであろう多難な幼少期を過ごしたということであろう。
結局、このページでは「〜だろう」「だろう」が非常に多くなると思う。ご容赦。
織田信長が近江の浅井長政を攻め滅ぼし功のあった羽柴秀吉に今浜(長浜)を与えた。
山内一豊も僅かながら近江の唐国の所領を貰う。
しかし貧窮生活はまだ続いたようだ。
さて、千代(まつ)の名を著名にしたのは山内一豊が名馬を買い求める逸話である。
織田信長の馬揃の前。
山内一豊は安土の城下で馬売りが売る駿馬を見かけた。
しかし山内一豊にはその馬を買う金が無い。
見事な駿馬であるが、誰も手が出せない程の高額だという。
黄金10両というのがその価格。
もちろん山内一豊にも手が出ない。
それを惜しむ夫に千代は10両を差し出した。
嫁入りの際、母から10両を授かったものだとの事。
どんなに貧窮しても手を付けてはならぬ。夫の火急の折に時こそ用立てよ。
と、念をおされ、その通り今まで鏡筥の底に仕舞っておいたのだ。
夫・山内一豊が見込んだ駿馬を手に入れれば向後の働きも変わるだろう。
今こそが火急の時。
山内一豊はその駿馬を手に入れ馬揃に出て、信長の歓心をかったという。
良妻賢母こそが女の道と謳われていた頃、この逸話は大いに役立った様だ。
夫の火急の折に備えて置く事が大事。
もちろん、今でも通用する話なのではあるが、あまりにも「良婦の鏡・婦道の鏡」と持て囃された反動なのか今日ではあまり用いられない話題。
他にも千代の良妻ぶりは伝わる。
貧窮の最中、配下や職務上の諸々で下のものを食わせてやらねばならぬ。
千代は髪を売り食事の工面したとも伝わる。
しかし、髪を売りるという話。古今東西、良く聞く話である。
作り話の可能性もある。
それとも髪を売り食事を工面するのが頻繁に行われていたのだろうか?
やはり・・・と感じてしまう。
駿馬と10両の逸話も「つくり話」と見る向きもある。
話が登場するのが江戸時代中期になってからということと、駿馬と良いながら、馬の名やその様子が伝わらないからだ。
確かに胡散臭さは残る。
逸話に作り話・誇張があったとしても、もともと千代がその様な女性であったからこそ、その様な逸話が作られた・引っ付いたとも想像できる。
さらに千代の活躍は続く。
一娘を与禰を産む。
山内一豊は本能寺の変後、羽柴秀吉・豊臣秀吉の家臣として転戦。
長浜城を与えた。
長浜城は羽柴秀吉の居城であった事を思えば信任の厚さも伺える。
しかし、この時、震災により娘を与禰を失ってしまう。
捨て子を拾い育てるが、家督を継がすには後の乱れの原因となると僧籍にいれてしまう。
小田原の戦の後、山内一豊は掛川城主となる。
豊臣秀吉が没し、豊臣家臣団は分裂する。
山内一豊は徳川家康寄りに身をおく。
関が原の合戦の前哨。
徳川家康が会津の上杉討伐の軍を出し山内一豊もこれに従った。
大坂では石田三成派が大坂に残る武将の妻子を人質とする計画に出た。
石田三成派の増田長盛・長束正家連署の文が千代にも届けられる。
千代はこれを家臣の田中孫作に託し山内一豊に届けさせた。
この時、2通の文もしたためている。
1通は増田長盛・長束正家連署の文と一緒に文箱に収め、もう1通は観世より(こより)にして田中孫作の編笠の緒に編み込んだ。
文箱を受け取った山内一豊は先に編笠のこよりを開く。
この内容は不明だけれども、後の山内一豊の行動で推察されよう。
文箱には服従を促す増田長盛・長束正家連署の文と、大坂の状況・人質騒動・時によっては自害は覚悟とする内容の千代の文。
これを開封する事無く、文箱ごと山内一豊は徳川家康に差し出した。
つまり山内一豊も文箱の中身を知らない。
全てを徳川家康の判断に託すという行動に出たのである。
もしかしたら大坂方から勧誘の文かもしれない。
或いは千代から上杉討伐から戻る様な願いかもしれない。
どんな内容の事が書かれているかもしれないものを確認せぬまま徳川家康に託す事で信頼を勝ち得たのである。
また仮に山内一豊が文箱の中身を知っていたら、これも徳川家康にたいするポーズ・スタンドプレイかと受け止められる危険性もある。
多分、千代はそれを察し、文箱を開けぬまま徳川家康に促すよう、こよりにしたためたのだろうと考える。
この山内一豊の見事な行動によって去就を決めかねていた中間派の諸将も徳川家康に拠る者も出てくる。
関が原の戦いの後、山内一豊は土佐一国を拝領することで功の大きさが伺える。
貧乏侍が妻の内助の功でメキメキ出世し、一国の太守となった。
これが 良妻賢母こそが女の道と謳われていた頃、「良婦の鏡・婦道の鏡」と持て囃された所以なのであろう。
織田家臣団には豊臣秀吉といい、前田利家・明智光秀といい、貧困生活・浪人生活を味わいながら大名格に伸し上がった武将に良妻を謳われる正室が多い。
やはり内助の功は必要なのだろう。
慶長十年(1605)、山内一豊は没した。六一歳。
家督は山内一豊の弟・忠義が養子となり継いだ。
千代は出家し見性院と号す。
土佐には残らず伏見・京都桑原で余生を過ごす。
元和三年(1617)、病没。
山内一豊と同じく六一歳。
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