たいら ちかざね |
生没年 | 〜 | 信長との縁 | 平家/織田家の祖(伝承) |
主な活躍の場 | 織田家の祖 |
平 親真。平 親実。 三郎権大夫。覚盛。 織田 親真。津田 親真。斎部親真。 平資盛の子。 平経盛は平重盛の子であり平清盛の孫にあたる。 つまり平親真自身は平清盛の曾孫となる。 (一般的に苗字となる織田を用い織田親真として伝わるので、織田親真と記しました。 しかし実際に親真が織田の苗字を名乗った訳ではない。) 織田信長を生み出した織田家の祖として知られる。 平親真は直接、源平合戦とは関係が無い。 合戦による落ち武者伝説として伝わるものである。 平親真の父とされる平経盛は若き頃、時の摂政藤原基房の前を馬で駆け抜けようとし騒動になった逸話もあり。 また安徳四年(1180)、以仁王令旨による平氏追討の挙兵の折に大将軍として名を挙げる等、武功も多く。 「貴族化した平家」と捉われがちな平氏の中、武士としての平氏も印象付けている。 だが、平氏は徐々に勢力を失い西海へと流れていく。 平資盛は愛人の一人を近江国津田庄にその間に産まれた子と共に匿わせた。 平資盛は愛人というと健礼門院右京大夫が名高いそうだが、別人であろう。 三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪という説もあり。 また平氏一族の富田基度の娘、蒲生親長の娘という記述もある様だ。 名は伝わっていない。 結局、平親真の母の名と出自は解らない。 尤も、織田家が平氏より発するという話そのものが、現在では偽りであるというのが一般的な認識。 だから、深くは追求しない事とする。 あくまでも伝承として紹介。 平資盛は妾妃と愛息子への餞別として和歌を詠んだ。 近江なる津田の入江のみちづくし 見えぬも深きしるしなりける 歌心の無い私には解説出来ませぬ。ご容赦。 平資盛は命を落とし、栄華を極めた清盛系平家も滅んだ。 平資盛の妾妃は津田の庄の土豪の妻となる。 平親真も津田の苗字を名乗った事だろうか? 利発な子に育ち、越前国丹生郡織田神社の神官斎部某が養子にもらい受けた。 成人もその後であろうから、本来は斎部親真と書くべきかもしれない。 また、覚盛という名も伝わる。 斎部家系図(『織豊興亡史』)に於いては養父斎部某の名を親澄と記している。 そして、彼の七代後、斯波家に見出され、苗字を織田と改め仕える事となった。 神官として生きた斎部親真、その生きた様は解らない。 平家の落し種、織田家の祖と称されるだけで、その真実は全く不明。 夢幻の如くな物語である。 |
補足 | <<<参考文献>>> 『群書系図部集』第四 群書類従完成会 刊 『織田信長総合事典』 岡田正人 編集 雄山閣 刊 『織豊興亡史』 早瀬晴夫 著 今日の話題社 刊 「その後の織田一族」 杉本苑子著 新人物往来社「歴史読本昭和四十八年二月号」収録 <<<関連記事>>> 津田家について・・・@・A |