武将列伝番外編・メジャー列伝 




 本多忠勝 
 ほんだ ただかつ 
 生没年   1548〜1610   主君・所属   徳川家康 
主な活躍の場  三方が原の戦い、小牧長久手の戦い、関ヶ原の戦い他 
  本多平八郎忠勝。  幼名鍋之助。  従五位下中務大輔。
  徳川家康四天王の一人として57回におよぶ戦闘に加わった。  その間、一度も負傷しなかったという。   (徳川家康四天王は他に酒井忠次・榊原康政・井伊直政を加えた四人)

  天文一七年(1548)本多平八郎忠高の嫡男としてうまれる。   初陣は永禄三年(1560)、この時13歳。  桶狭間の戦いの前哨戦ともいえる大高城の兵糧入れ。   以後、忠勝は徳川家康随一の猛将として活躍。
  永禄五年(1562)15歳の時、叔父小原肥前とともに戦場に出た際、小原肥前が功名を譲ろうとしたが 「なんぞ人の力を借りて、もって武功をたてんや」とそれを拒否、敵陣に駆け込み自ら首を討ち取ってきた。
  (1572)一言坂の戦いにおいては徳川勢敗走の殿を務め、武田の追撃を食いとどめた。   武田信玄の近習小杉左近はこう歌う。   「家康ニ過タル物ハ二ツ有、唐ノ頭ニ本多平八」−−−家康にはもったいないものが2つある。   それは「唐の頭の兜」と本多平八郎忠勝だ。   これは家康を揶揄した歌ではあるが同時に本多忠勝が武田も認める猛将であったということがうかがえる。
  また織田信長は彼を「花も実も兼ね備えた勇士」と讃えている。
  本能寺の変のあと家康が岡崎へ逃走する伊賀越えでも家康に随身。   討死をも考えた家康に対して諫言し帰国するよう諭し危難脱出に尽くす。
  小牧長久手の戦いではわずか500の兵で秀吉率いる3万8000の兵を牽制。
  小田原攻め、関ヶ原の戦いなどを歴戦。     慶長一五年(1610)、63歳で死去した。

  鎧は黒糸威、兜には鹿の角の立物、そして蜻蛉切と呼ばれた槍を抱えた姿の忠勝が有名。   蜻蛉切は長さ2丈(6メートル)、柄には青貝をちりばめた名槍。   名の由来はトンボが飛んできて穂先にとまったとたん二つに切れてしまった為と言う。   関ヶ原の戦いでは名馬・三国黒にまたがって参陣したが、これは徳川秀忠より賜ったものである。
  天正一八年(1590)家康の江戸入部に際し忠勝は上総大喜多に10万石を得る。  関ヶ原の戦いのあと 伊勢桑名へ転封15万石、この地で果てる。

  忠勝は武闘派と呼ばれる武将である。   徳川家臣団随一の謀将本多佐渡守正信を「佐渡の腰抜け」と罵ったという。   しかし、忠勝は単に吏僚派武将を嫌ったり、武功のみを奨励しているのではない。   彼の遺書に一節。   「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の艱に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、 忠節を守を指して侍と曰ふ」   命惜しまず忠節を励めと言っているのである。   

  補足   * 祖父 本多平八郎忠豊 ・父本多平八郎忠高 −−− 天文年間、安城での合戦にて討死。   (忠豊・忠高それぞれ別の合戦)   武闘派の家系である。
 * 一言坂の戦い−−− 三方が原の戦いの前哨戦。   徳川方の偵察隊を武田勝頼が襲撃。
 * 子平八郎忠政−−− 父の遺領を継ぎ、のち播磨姫路へ転封。   子忠朝−−− 忠勝の桑名転封後、大喜多に5万石を与えられる。




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