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汎秀。秀千代。秀胤。五郎左衛門尉。甚左衛門尉。監物。
織田信長の後見役として仕えた平手中務丞政秀の三男。
系図『平天後に改平手氏系譜謀(以後『平手系譜』と略)』では平手政秀の長子久秀の子、つまり政秀の孫とされている。
母は加藤清正の姉と伝わる。
『信長公記』では平手政秀の男子は3人。
順に五郎右衛門、監物、そして甚左衛門(汎秀)。
『平手系譜』では久秀(五郎右衛門、監物)と女子であり、汎秀の名は無い。
また、政利(五郎右衛門)、汎英、秀定(監物)と弟が記されており、汎秀は久秀の子となっている。
系図に誤りがあるのか、太田牛一(『信長公記』の著者)の記憶違いか?
『信長公記』のエピソードとして
長兄・五郎右衛門長政は駿馬を所持していた。
その馬を信長が気に入り所望の意を表したが
某は武者を仕候間、御免候へ
と憎体をついて進上しなかった。
ゆえに信長との間が気まずくなったという記載が見られる。
大阪本願寺攻め等で監物・甚左衛門汎秀の名もみられるが、汎秀の名が後世に伝えられるのは三方が原の戦いに於いてである。
元亀三年(1572)甲斐の武田信玄が本格的に徳川領への侵攻を開始した。
徳川家康は同盟の盟主たる織田信長に援助を乞うが信長も思うように動けない状況である。
そのおり、信長は佐久間信盛と平手汎秀を将として3,000名の援軍を送ったのである。
三方が原の戦いは、武田方の一方的な勝利に終わり徳川・織田連合軍は敗走した。
その際、平手汎秀も討死してしまったのである。
織田援軍のもう一人の将、佐久間信盛は後、信長より折檻状を受け追放されてしまう。
その時の折檻状の項目のなかにはこの三方が原の戦いの敗走を責める条文がふくまれていた。
平手汎秀を見殺しにしたと書かれてある。
三方が原の戦いの敗戦自体の責より、戦いへの挑み方が問われたのである。
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