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藤八郎 。藤八 。
前田蔵人利昌の五男にて前田利家の実弟。
(前田家系譜は上記「前田利家」項を参照下さい。)
佐脇藤右衛門の養子となる。
佐脇藤右衛門(『武功夜話』では藤左衛門)も織田信長の家臣である。
信長から独立した存在と受け止められていた事もありうるが、やはり家臣であろうと思われます。
(『織田信長家臣人名辞典』以降『人名辞典』と略)
はじめ、兄・前田利家とともに小姓として信長に仕える。
桶狭間の戦いで信長が夜明け方に出陣を開始した折、最初に付き従った五騎の一人。
(5騎とは他に岩室長門守 長谷川橋介、山口飛騨守、加藤弥三郎)
永禄元年(1558)、信長の尾張統一決戦ともいうべき浮野の戦いにおいて林弥七郎を討つ。
はじめ林弥七郎は弓の名人で信長の鉄砲術の師匠でもある橋本一巴と弓対鉄砲の一騎打ち。
林弥七郎と橋本一巴と旧知の仲であったという。
このとき林弥七郎の矢は橋本一巴の脇を刺し、橋本一巴の弾は林弥七郎の肩を打ち抜いた。
佐脇良之はその林弥七郎に挑みかかるが、林弥七郎は座ったまま太刀をふるう。
林弥七郎の反撃に佐脇良之は左肘を負傷するが、そのまま組掛かり、遂に弥七郎の頸を討った。
然る処を、信長の御小姓衆佐脇藤八走懸り、林が頸を小手くはへに打落とす。
かゝり向かつて終に頸を取る。
その頃、エリート集団とも呼べる赤母衣衆に抜擢。
信長上洛後、尺限廻番衆を勤める。
その後、信長の不興を買うことがあり出奔。
先に挙げた桶狭間の戦いでの5人の内の長谷川橋介・山口飛騨守・加藤弥三郎らもこの時、出奔。
加藤弥三郎が同じ信長の家臣、道盛を斬った事に荷担した為と伝わる。
( 『人名辞典』では道盛を赤川景弘としています )
次に歴史の舞台に登場するのは三方が原の戦いである。
この時、加藤弥三郎は徳川家康の家臣となっていたという記録もあり、佐脇良之も同じく家康に仕えていたのか?
佐脇良之は浪人の身であるにもかかわらず、信長家臣への返り咲きを願い戦場へ赴くいたのか?
( 実は佐脇良之の兄・前田利家も信長の勘気を被り織田家を追放されている。
この時、前田利家は信長に無視されながらも従軍。信頼を回復している。)
だが、佐脇良之の命は加藤弥三郎と共に虚しくこの地で終わる。
同じ身上の元小姓仲間・長谷川橋介、山口飛騨守、さらに浜松に来ていた尾張商人・玉越三十郎も
とともに三方が原で討死している。
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