遊佐河内守教光。 時光。 月窓入道。
織田信長の犬山城攻略が着々と進み於久地城・黒田城は信長のもとに降った。
これを機に永禄七年(1564)、犬山城を囲むこととなるが未だ犬山城の周りには大道寺・堀之内・
中島の三つの砦があり美濃からの援軍が詰めていた。
ここで信長は遊佐河内守教光を呼んだ。
教光は名前の示す通り河内守護代遊佐氏の一族と思われる。
この当時は浪人中で尾張に流れてきたようだ。
教光の妻は生駒八右衛門の妻の姉である。
生駒氏は信長の母である土田氏と縁戚関係である上、八右衛門は信長の妾吉乃の兄である。
当然、生駒屋敷で信長と教光とは何度か顔を合わせたことがあるのだろう。
教光は楠流兵法の達人で、よく兵法について説いていたという。
言葉よりも行動、行動よりも結果を重んじる信長のこと。
日頃の教光の兵法話が嘘か誠か試してみたくなったのであろう。
その方、兵法の心得深きと聞く。
されど私は未だその実戦を見たことがなく噂のみにしか耳にしない。
この度、犬山城を攻めようと思うが、これより20町先、柏森(大道寺砦)に遮る輩がいる。
そなたに手勢300人を与える。
これを攻め取って見よ。
そのような事を言ったようだ。 (『武功夜話拾遺』より)
そして信長は本隊600人を従え近くの丘陵に陣を張った。
教光はまず300の兵(実際は400人いたという)を正面部隊と裏手攻め隊との半分に分けた。
さらに正面部隊のうち30の鉄砲隊を川筋の林の中に潜ませた。
まず正面部隊と砦の守備兵が激突、折りをみたところで潜ませておいた鉄砲隊が火を噴いた。
突然の発砲に犬山勢は浮き足立ち崩れだした。
教光はさらに攻めたてる。
信長もこれが勝機と旗本衆を先頭に追撃。
一方、裏手攻め隊も呼応して砦を囲む。
続いて中島砦を攻めていた蜂須賀正勝・前野長康ら川並衆が砦を攻め落とした勢いをかって大道寺砦
攻めに加わりあけなく砦は落ちた。
こうして犬山城は支城・砦を次々剥がされ裸同然となり、間もなく城主織田信清は城を開け渡し逃亡した。
信長は大いに喜び、小牧山城にて褒美を取らせている。
兵法の心得の真実、しかと見届けたということか。
その後の動向はよくわからないが天正十二年(1584)小牧長久手の戦いでもう一度登場する。
この時は織田信雄に従った。
のち秀吉の怒りを買い剃髪して月窓入道と号したという。
位牌によれば没年は天正十九年(1591)。
大道寺砦攻めの折りは齢65歳の老翁であったというから当時には珍しく92歳の大往生である。
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