マイナー武将列伝・織田家中編 




 長谷川秀一 
 はせがわ ひでかず 
 生没年   ?〜1594   主君・所属   織田信長・羽柴秀吉 
主な活躍の場   
 
 
 長谷川秀一。 藤五郎。 幼名竹。 秀吉麾下で羽柴姓を賜る。(羽柴東郷侍従)。
 尾張国葉栗郡北方の出。 はじめ信長の小姓として仕える。
 
 天正六年(1578)六月、羽柴秀吉の神吉城攻めの際、御検使の一人。
 天正七年(1579)五月、浄土宗と法華宗とが宗論を展開する際には調停役、警固役を命ぜられる。
 もっぱら信長の側近として代官職奉行職や御使役を命ぜられている。
 
 本能寺の変の時、秀一は堺にいた。
 上洛した徳川家康の大阪・堺見物の案内役として付けられていたのである。
 さて、本能寺の変が起こると家康一行は有名な「伊賀越え」にて三河岡崎まで逃げ延びるわけであるが、 秀一もこの逃避行に同行している。
 ここでひとつの問題。
 なぜ、秀一は家康に同行したのか?
 信長・信忠の死を知った織田家臣団は様々な行動をとる。
 領地へ帰る者、領地を(攻撃され)追われる者、死守する者。
 主君の仇を討たんと集結する者。
 本来、秀一の立場であるなら安土城の留守を守る(もしくはそこから落ち延びた信長の妻妾を守るため日野城) へ向かうなり、直後に一番近くに駐在していた軍団の重鎮(北畠信雄、丹羽長秀)の元に集まるかなど、 様々な行動をとるはずではなかったか?
 そんな不思議な行動が、家康の信長暗殺黒幕説・長谷川秀一内通説へと導かれている。
 織田軍団は崩壊すると確信し家康に賭けてみた、あるいは単に逃げることのみしか念頭になかった。
 家康の案内役としての使命(いわば信長から与えられた最後の使命)を全うしたとも考えられる。
  (織田家臣団贔屓の作者にとっては一番最後の使命感であると思いたい。)
 
 その後、秀吉に仕え小牧長久手の戦い(秀吉側)、九州攻めなどに参加。
 秀吉麾下ではめきめきと昇格し従五位下侍従、越前東郷15万石の槇山城主となる。
 羽柴の姓も賜り東郷の地と官名をとって羽柴東郷侍従とも呼ばれた。
 [文禄の役で朝鮮にわたり同地で没した。 病死である。]
 と、伝えられ、ここにもそう掲載してきましたが、朝鮮からは生還。  文禄三年(1594) の伏見城普請にも携わっている様子。  

  補足   
 



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