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小瀬三郎五郎清長。若しくは三郎次郎。あるいは長清。
父は織田造酒丞、弟に菅屋長頼がいる。
父、弟と皆姓が異なる。
織田造酒丞はもともと織田姓ではなく、功労によって織田姓を与えられたという。
小瀬三郎五郎清長は小瀬三右右衛門尉の養子となり小瀬姓を名乗った。
弟、長頼の菅屋姓も織田信長より賜ったものなので本姓ではない。
津田(織田)信成に仕え春日井郡小幡郷にて五百貫の知行を得る。
津田信成は織田信長の叔父、織田信光の嫡男。
つまり織田信長の従兄弟でもある。
その一門に仕える身の小瀬清長であるが、かなり貧しい暮らしをしていたらしい。
柴田勝家が近江に領地を得た際、これを見かね招いたという。
約束の知行は三千貫。6倍の加増である。
だが、それを小瀬清長は断った。
柴田勝家はさらに誘いに出たらしい。
よほど見込まれたのであろう。
しかし、逆に小瀬清長は腹を立てたという。
「我、不肖たれども、市之助(=津田信成)家には代々長臣(=家老)といわれ来ぬ。
然れば其家の長臣何ぞ身を商ひ候はんや云々。
某は義を失ふまじきものを」
柴田勝家はその忠義心に感服し誘うのをあきらめた。
天正二年(1574)9月。伊勢長島攻め。
津田信成は「しのはせ攻衆」として篠橋からの攻めに加わる。
織田姓は苦戦を強いられており、津田信成もその命を落としてしまう。
この時、小瀬清長は痛手を負い陣中に留まっていたが、主の訃報を聞き、只一騎で敵中へ駆けだした。
(『織田信長家臣人名事典』に病気とあり。)
ただ一騎、つき毛の馬に乗り一揆衆を切り伏せていくが多勢に無勢、討ち死にしてしまう。
主の仇というよりも主が討ち死にした際、伏せっていたことを恥じ、ここで生きながらえては不忠と考えたのであろうか。
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