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菊千代。久太郎。左衛門督。侍従。
堀家は美濃国茜部(現・岐阜市)出自と伝わる。(『寛政重修系図諸家譜』(以降『寛政家譜』))
父は堀太郎左衛門秀重で斉藤道三、後、織田信長に仕えた。
永禄八年(1565)頃、信長に仕える。
当時は若年でもあり、小姓として仕えたと思われる。(『織田信長家臣人名事典』(以降『人名事典』))
秀政が信長に仕えたのは秀吉(当時・木下藤吉郎)の説得によると言う。(『織田信長公三十六功臣』)
『寛政家譜』によれば、当初信長の家臣大津伝十郎に仕えていたがここを去り、藤吉郎の元へ世話になっている時、信長に認められ
直臣になったと記されている。
先出の『人名事典』に彼の実務歴が列記されている。
それらは奉行・特使・代官の要素を担うものが多い。
戦場での勇将といったものよりは行政官・管理官といった文官であるような感じも伺える。
若年期から信長の下でこのような職務をこなしている訳であるから有能な人物であったに違いない。
もちろん、文官一辺倒という訳でもない。
小谷攻め、雑賀攻め、有岡城攻め、伊賀攻め等数々の戦場にも赴く。
ここでも有能さを発揮したことであろう。
しかし、歴史は激動する。
天正十年(1582)本能寺の変。
この時、信長の側近的立場にいた秀政は京にはいなかった。
高松城へ向かっていたのである。
高松城では羽柴秀吉(後・豊臣秀吉)が水攻めをかけている状態。
そこへ信長の特使として向かっていた。
本能寺の急を告げる使者とあまり差はなく羽柴秀吉の元へたどり着いたであろう。
こうして羽柴秀吉の大返しとなるが秀政は羽柴秀吉に従って山崎へ向かうこととなった。
変後、明智光秀に同心するか、さらにその後羽柴秀吉派につくか柴田勝家派につくか。
秀政には迷う間も選択する余地もなかったに違いない。
山崎の戦いの後、坂本城へ向かう明智秀満を追う。
この時、明智秀満の有名な湖上渡のエピソードが残る。
(秀政の軍に追われた明智秀満が単騎、琵琶湖の湖水を馬で渡って逃げ切った
というものであるか真偽は如何に?
まぁ、無理だろうから真実は舟で移動したのではないかと考えられている。
清洲会議の後、新当主となった信長の孫、三法師の傅役となる。
また多くの織田家臣がそうであったように家中が親秀吉派と親勝家派に分離していく中、次第に羽柴秀吉よりの道を歩んでいく。
羽柴秀吉は秀政の力量を買い真っ先に抱き込んでいった。
いや。中国大返しからの時点で羽柴秀吉に長く接していた間に
秀政自身が羽柴秀吉に身をゆだねることが得策だと感じ始めたのだろうか。
賤ヶ岳の戦いの後、佐和山城主。
小牧長久手の戦い、四国攻め等を経て北庄城主。
九州攻めにも参加。
天正十八年(1590)北条攻めにも従軍。
小田原落城を前にして陣中で病没。
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