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山田と言えばありふれた苗字としての代表でもあるが、この時代の歴史読物・小説等では、あいふれた程には登場しない。
それでも『信長公記』をはじめ、信長や秀吉の史料等には比較的よく登場すると思う。
『信長公記』に記載されている織田方の武将として
山田左衛門尉・三左衛門・治部左衛門・新右衛門・大兵衛・半兵衛・七郎五郎・弥右衛門・弥太郎等があげられる。
このうち始めに登場するのが山田弥右衛門。
織田信長を那古野の城の主として織田信秀が古渡城へ移った時、その古渡城の御台所賄として登場する。
御台所賄と言っても今日の台所仕事…調理人という意味ではない。
古渡城の経理担当役員といったところであろうか。
さて、山田という地名が名古屋には2ヶ所ある。
西区と東区。ともに山田町という地名があるのだが、もとはこの一帯に山田荘・山田郡が置かれていた。
ここに清和源氏満政五世の重遠が山田郡浦野に住み山田氏を称したという。
また源満政自身が摂津国能瀬郡山田郷を領したことに発するという説もある。
山田弥右衛門がこの山田重遠の子孫であるという確証は無いが、山田重遠の子孫が尾張中部に栄えたことで
信長や秀吉の家臣にその縁の者が多く存在する事となったのではなかろうか。
先に挙げた山田を苗字とする武将達の多くもその子孫であろうが、だれも確証が無い。
山田ではなく岡田を苗字とする武将、岡田重善・岡田重孝はその家系図で山田重遠の九世孫重政を岡田氏発祥としている。
山田弥右衛門の名は、御台所賄の記載以降、『信長公記』には登場しないが、ただ「山田」とだけ記された人物がいる。
織田信秀が亡くなり、その葬儀の場面。
(信長が袴もはかぬ姿で登場し仏前へ抹香を投げつけた場面は小説・ドラマでも有名であろう)
その際、信長の弟・信勝に供した家臣として
柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門、長谷川、山田以下御供なり
とある。
『甫庵信長記』での同場面の記載では
柴田権六、佐久間大学大允、同次右衛門尉、長谷川宗兵衛、山田弥右衛門尉、属従ひけり
『信長公記』の「山田」は山田弥右衛門の事であり、織田信秀の死後は信勝に従ったものと思われる。
これ以降は『甫庵信長記』でもその名は見られない。
* * *
山田弥太郎は、永禄十二年(1569)、大河内城攻めの折の尺限廻番衆の記載で登場する。
『信長公記』
尺限廻番衆
菅屋九右衛門、塙九郎左衛門、…(略)……山田弥太郎、滝川彦右衛門尉、山田左衛門尉、佐藤藤八、
山田弥太郎、山田左衛門尉ともにこれ以前の記載が無くどの状態であったかはわからない。
なお、『甫庵信長記』の記載では尺限廻番(柵際の廻番)に山田左衛門尉の名は無い。
次に山田弥太郎の名が『信長公記』に登場するのは本能寺の場面である。
御殿の内にて討死の衆、
森乱・森力・森坊兄弟三人、小河愛平、高松虎松、金森義入…(略)…山田弥太郎、飯河宮松、祖父江孫…(略)…
御小姓衆懸か合い懸かり合い討死候なり。
ここでは小姓として記載されている。
永禄八年生まれの森乱と同年代としてみると、尺限廻番衆の山田弥太郎と同一人物とするには無理がある。
「尺限廻番衆の山田弥太郎」の子、或いは弟が「本能寺の山田弥太郎」と見るほうが自然であろう。
『尾張群書系図部集・(下)』の家系図を参照してみる。
この家系図は『尊碑分脈』を元に作られている様だが、ここには「山田左衛門尉」「山田弥太郎」の名はない。
山田重遠の十七世孫重鎮(又右衛門)の項に
織田備後守信秀に仕う。
永二百貫の所領を賜わる。
山田重鎮には重秋(又太郎)、重名(又次郎)があり、重秋の項には
織田上総介信長に仕う。
重名の項には
兄と共に織田上総介信長に仕う。
天正十年六月二日、京都本能寺にて討死。
山田重名が「本能寺の山田弥太郎」である事は間違いないであろう。
すると山田重鎮か山田重秋が「尺限廻番衆の山田弥太郎」であろうか。
だが山田重鎮には「織田信長に仕う」とは記されていないことから、山田重秋が「尺限廻番衆の山田弥太郎」か。
山田重鎮が織田信秀に仕えていた事と…、
「二百貫の所領」という記事から、古渡城御台所賄役・山田弥右衛門の名が思い浮かぶ。
あくまでも想像であるが…
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