マイナー武将列伝・織田家中編 




 愛智 拾阿弥 (十阿弥) 
 あいち じゅうあみ 
 生没年   ?〜?   主君・所属   織田信長 
主な活躍の場  信長の同朋衆 
 
 
 愛智拾阿弥。信長の同朋衆である。
 
 同朋衆とは武将の側近として使えた僧のこと。
 この当時は僧体のまま武将でもある者も多くいたが、それとは異なり武ではなく芸能・茶事・雑務・話し相手として 仕えていた。
 
 ある時、前田利家が笄を失くした。
 前田利家は拾阿弥が盗んだものとして追求、斬り捨ててしまった。
 
 笄とは耳掻きの様なものであるが髪をといたり掻いたりする重宝なものであったらしい。
 普段は脇差の鞘に挿している。
 
 よく時代劇などで逃げる悪漢を腰の辺りから何かを取り出してピュンと投げるシーンがあたりする。
 手裏剣代りにも使えたのかもしれない(?)。
 
 詳細はわからないのですが(「亜相公夜話」で触れているそうですが、私は未だ原文を読んでいないので・・・)
 前田利家は拾阿弥を斬り捨てようとしたが信長の手前もあり許可を得てから成敗しようとした。
 拾阿弥はひたすらあやまり、拾阿弥とも親交の厚かった佐々成政達が仲介に入りすぐに成敗するには至らなかったようだ。
 そうこうしているうちに信長の耳にも入り、信長からも大目に見てやるよう諭され、利家はしぶしぶながらも許したという。
 
 ところが許された拾阿弥は増長してしまったようだ。
 それとも命乞いまで↓照れ隠しで大口を叩いたのだろうか?
 
 「人に物を盗まれるような男が、かぶき者とは片腹痛い」
 「嫁御に鼻の下を長くしているかぶき者」
 「武士がいったん斬ると口外したからには、たとえ殿よりお言葉添えがあったにせよ、
  斬らぬことがあるものか。
  途中で思いとどまるくらいなら、最初から斬るなどと言わぬことよな」

  (ちなみに上記セリフ部分は 『前田利家 物語と史蹟をたずねて』井口朝生著 成美堂出版 に依ります。
  私は未だ「亜相公夜話」の原文を読んでいないので・・・。)
 
 
 さて、この拾阿弥の事ですが・・・よくわかりません。
 調べても見ましたが・・・力及ばず。
 どなたか情報求む。
 
 さて、拾阿弥は姓が愛智であったとも聞きます。
 愛智とは愛知のに通じます。
 古くは愛知郡を愛智郡と書いていた様です。
 今の市町村区画では愛知郡は名古屋市の東方のわずか部分ですが昔は名古屋市の大部分が愛智郡でした。
 
 愛智郡戸部村(現:名古屋市南区)に愛智塚という字があったそうです。
 一説に、この一帯にいた愛智氏の墓とも伝わり今は笠寺墓地に移されているとか。
 この西に戸部一色城があり、ここの城主に愛智助右衛門吉清という人物がいたようです。
 代々愛智氏の城であり愛智氏は郡司であった様子。
 
 戸部と言えば信長の時代、戸部新左兵衛が思い浮かびます。
 戸部城(松本城)の城主で織田家を裏切って今川に奔ったが信長の計により今川方に処刑されてしまった 山口左馬助教継と同一人物とされています。
 この山口教継の妹が愛智某の妻となったという記録もあるようです。
 
 これに関しては戸部氏と山口氏が別人で山口の妹が戸部氏に嫁ぎ、戸部氏が愛智姓も称していたという別の説もあるようです。  
 とにかく、拾阿弥はこの愛智氏縁の者だったのでしょうか・・・。
 
 

  補足   
   時期は少し後になりますが信長の同朋衆に住阿弥(じゅうあみ)という者がいたようです。
 
  住阿弥御留守あしく仕候に付いて御成敗
 
 と留守中に不都合があり成敗されてしまう一文が『信長公記』天文六年に見られます。
 続いて「さい」という名の女中も同罪にて成敗された様子。
 『織田信長家臣人名辞典』では不倫でも発覚したのだろうとしていますが
 いやはや「じゅう阿弥」受難続きです。
 
    (武将じゃないからココは付録です)
 



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