一蛇獨怨 終不見處所 介子推



介推(かいすい)と言う男有り。

中国は春秋戦国と異名をとる東周の時代。

晋と呼ばれた国があった。

晋の献公の公子たちは、家督争いに巻き込まれ

ある者は暗殺され、ある者は国外へ逃亡していった。

そんな公子の一人が重耳(ちょうじ)である。

彼の流浪生活は19年にわたる。

その流浪生活を共に支えた随臣の一人が介推である。

重耳の流浪旅は亡命と逃亡の生活であり決して安穏としたものではない。

時には飲まず食わず、宿にも恵まれない日々が続く。   

そして、遂に重耳は晋へ帰国し君主の位に着くことができた。

晋の文公、すなわち春秋五覇と呼ばれる5人の覇者の一人が重耳である。



だが介推は重耳の元を去る。

史記によれば、その直接の原因は重耳が晋に入る少し前の出来事による。

重耳の臣の第一人者といえば咎犯(きゅうはん)である。

重耳が帰国するにあたっては晋国内で手引きする晋の家臣たちの功績も少なくない。

咎犯はそういった晋国内の功労者に対し牽制するために一芝居拍つ。

黄河のほとりまで来たときに咎犯は重耳に別れを告げる。

私の役目は終りです。 今まで私が犯した無礼の数々をお詫びしここから去っていきます。

これには、重耳も驚き黄河の神に対し即位後も流浪時代の家臣たちを重用する誓いをたてた。

多分、咎犯は重耳が晋の君主となっても流浪時代の苦労を忘れさせぬように

と言う意味も込めてこのような行動に出たのだろうが

介推の目にはそのように映らなかった。

重耳が君主の座につくのは天意である。

だからこそ、19年の流浪も何とかこなし、刺客や政変の難からもうまくのがれる事ができた。

自分たちはその天意をほんの少し支えてきたにすぎず、

その誇りだけで十分の栄誉である。

なのに、第一の臣咎犯は、重耳が君主となれるのは自分たちのおかげだと言わんばかりに

まだ、君主にも着いていない重耳に対し、もう恩賞のおねだりをしている。

天實開公子 而子犯以爲己功 而要市君 固足羞也 不忍與同市吾

(天が実に公子に道を開いたのに咎犯は己の功なりして君に恩賞を求め約束させた。 
  羞ずるべき行為である。 私は彼らと同じ席に名を連なれたくない。)  


           

介推は文公(重耳)のもとを去り、文公は残った功臣に恩賞を与えた。

新しい政務軍務に追われ誰も介子推が去ったことに気づかず、

また恩賞を与えていないことにも気づかなかった。

介推は母とともに暮らしていた。

なぜ自分も恩賞や俸禄がほしいと意志表示をしないのかと言う母の問いに

尤而効之 罪有甚焉 且出怨言 不食其禄

(人を尤めておきながら自分もこれに効ってしまうことほど 罪ぶかいことはない。
  また自分で言い出した恨み言ですから、その禄をいただくことはできません。)


            

介推についていた従者のひとりはこれを哀れみ書を宮門に掲げた。

龍欲上天 五蛇為輔 龍已升雲 四蛇各入其宇 一蛇獨怨 終不見處所

(龍は天を望み5匹の蛇がそれを助けた。 今龍は天に上ることができ、4匹の蛇もそれぞれいるべき所にいる。
  だが、1匹の蛇だけひとり恨みいるべき所もない。) 

文公はここで初めて介子推のことに気がつき彼を捜すのである。

だが、彼は綿上山という山へ母とこもったきり、二度と出てこなかった。

そこで、文公は綿上山を介山と名を改め、介推をその領主と為した。

そして、文公は このことを国中にひろめた。

介推を讃える為に。

文公自身が過ちを繰り返さぬように。

以降、介推は介子推と呼ばれるようになる。



  

また、異説あり。

文公はどうしても介子推に会いたく、山に火をつけた。

逃げ道を 1本だけ確保しその出口で待てば、そこから出てきた介子推に会えると。

だが、それでも介子推は山を下りなかった。

焼山からは母をしっかりと抱きしめた介子推の亡骸が見つかったという。

文公はこれを恥じ、綿上山を介山と、改めかの地を介子推の地として立入禁止とした。

そして、人々は介子推の死を悼み清明節の前日には火を使わず冷たい食事のみをとった(寒食節)と言う。




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