前田利家の縁故関係をまとめてみました。
意外な繋がりもありますね。
 

前田長兵衛 利明 (?〜?) 前田市三郎 家継 正確な前田家の祖はここから始まる。赤尾家から養子に入る。 (?〜?) 前田蔵人 利隆 (利成)とも。荒子村を領したと伝う。 (?〜1508) 前田家春 (?〜1555) 前田蔵人 利春 (縫殿助、利昌、家則)とも。前田与十郎家(利治の系統)家臣。荒子城主。 (?〜1560) 前田蔵人 利久 利家の長兄(?〜1587) ⇒ 前田慶二郎 利益(利太) 滝川家から養子に入った利家の甥。今や有名な人です。(?〜?) 前田安太夫 正虎 前田利長に仕える。(?〜?) 前田三右衛門 利玄 利家の次兄 (?〜?) 前田五郎兵衛 安勝 利家の三兄 七尾城代。(?〜1594) 前田孫左衛門 利好(良継)。(?〜1605) 前田三九郎 和好(修理亮 利包) 利家の三男から利好の養子となる。(?〜1590) 前田利家 本編の主役です。(1538〜1599) ⇒ 前田まつ 利家の正室 芳春院。ご覧の通り利家とまつは従兄妹である。(1547〜1617) 佐脇良之 利家の弟 (?〜1572) ⇒ 佐脇源助 森甚之丞を妻とし尾張犬山に住むという。子は生駒又左衛門。(?〜?) 前田又次郎 利秀(利次) 越中今石動城主。(?〜1593) 前田右馬允 兼利 一説に利家の兄。犬山城主織田信清に仕える。(?〜1558) ⇒ 前田源助 諱不明。(?〜1558) 前田三郎四郎 利春 東起城主。(?〜1574) 前田五兵衛 利則 僧となり速念寺初代意休。(?〜1584) 竹野 利春の妻。利家の生母。 (?〜1573) 利久の妻 子が無い為、実家(滝川)家から甥(利益)を養子に迎えたが家督は信長の命により利家が継いだ。その事を恨み城や屋敷の調度品にまで呪詛をならべたてたと言う。(?〜1573) 前田孫四郎 利長(利勝) 権大納言。(1562〜1614) 前田孫三郎 利政 能登守、侍従。佐々成政の娘を妻とした。関が原の戦の後、所領没収。(1578〜1633) 前田犬千代 利常(利光) 中納言。利家の四男から利長の養子となり家督を相続。(1593〜1658) 前田 利孝 大和守 七日市藩祖 (1560〜1637) 前田七兵衛 利豊(利貞) 備前守。一度神谷守孝の養子となるが後、旧に復す。(1598〜1619) 幸 前田長種の妻となる。(1559〜1616) 蕭 増山殿。中川光重の妻となる。(1563〜1616) 麻阿 豊臣秀吉の側室となり加賀殿と呼ばれる。後に万里小路光房に再嫁。(1572〜1605) 豪 豊臣秀吉の養女となり宇喜多秀家正室。備前御方。(1574〜1634) 与免 (1577〜1593) 菊 豊臣秀吉の養女となるが夭折。(1578〜1584) 千世 細川忠隆に嫁ぎ、後に村井長次に再嫁。(1580〜1641) 福 長好連に嫁ぎ、後に中川光忠に再嫁。(1587〜1619) 保智 篠原貞秀に嫁ぐ。(1595〜1614) 喜意 調査不十分にて詳細不明。(?〜?) (女子) 調査不十分にて詳細不明。(?〜?) 斉 調査不十分にて詳細不明。(?〜?) 前田与十郎 利治 下之一色城主。(?〜?) 前田与十郎 仲利 下之一色城主。(?〜1541) 前田与十郎 種利 下之一色城主。荒子城主。(?〜1572) 前田与十郎 種定 長定とも。下之一色城主。本能寺の変後佐久間正勝に組するが後、羽柴秀吉方に。戦で蟹江城の城代として守備につくが敗走。自害する。妻は織田玄蕃の娘。(?〜1584) ⇒ 前田与十郎 長種 甚七郎とも。前田城主。利家の娘を妻とする。(1550〜1631) 前田真知 (?〜1630) 前田与平次 利定(定利、長俊) 下市場城主。兄種定と行動を共にし自害。(?〜1584) 前田平吉 長則 (?〜?) 覚翁恵等 出家し加賀玉龍寺四世。(?〜?) ご存知 織田信長 だから、ここでは深くは申しませぬ。(1534〜1582) ご存知 豊臣秀吉 だから、ここでは深くは申しませぬ。線が引きにくいので2ヶ所出てきますが、もちろん同一人物です。(1536〜1598) ご存知 豊臣秀吉 だから、ここでは深くは申しませぬ。線が引きにくいので2ヶ所出てきますが、もちろん同一人物です。(1536〜1598) 佐脇藤左衛門若しくは藤右衛門 信長の家臣であったとも外様衆であったとも伝わる。清洲城の留守役などを勤めた。(?〜?) 安見元勝 安見直政の一族か?調査不十分にて詳細不明。(?〜?) 長連竜 長家は代々能登畠山氏の重臣。連竜=好連なのだが系図に分けて記載されてあったので敢えて別々に書いて見ましたが・・・。(1546〜1619) 中川清六郎 光重 信長家臣から前田家家臣。越中増山城主。(1562〜1614) 長好連 長家は代々能登畠山氏の重臣。連竜=好連なのだが系図に分けて記載されてあったので敢えて別々に書いて見ましたが・・・。(1546〜1619) 中川光忠 ?調査不十分にて不明。 宇喜多秀家 備前の大名。秀吉に仕え小田原征伐等で武功。関ヶ原の戦では西軍につくが前田家らの嘆願で死罪は免れ八丈島へ流罪。前田家からの仕送りを受けていたという。 細川忠隆 細川藤孝の孫。忠興の長子。父の勘気にふれ蟄居。 万里小路光房 公家。調査不十分にて詳細不明。(?〜?) 神谷左介 守孝 尾張の人だが天正末期より利家に近侍。(?〜?) 寺西治兵衛 宗与(宗世) 秀則。前田家家臣。当初信長に仕え、佐久間信盛の与力に。信盛譴責後、剃髪。信長死後、利家に仕える。(?〜1611) 寺西松秀 調査不十分にて詳細不明。寺西秀則の一族か?(?〜?) 高畠孫十郎 定吉 荒子衆。「まつ」の甥。越前府中二十一人衆の一人にあげられる。(1536〜1603) 前田定利→方向参照  篠原 某 調査不十分にて詳細不明。(?〜?) 篠原 主計 「まつ」の父。主計という説が主流だが高畠定吉や奥村正清とも伝わるがここでは篠原主計としておく。信長の弓頭を勤めた。(?〜?) 篠原弥助 長重 (?〜?) 篠原勘六 一考 前田家家臣。人持組頭。養父の長重は「まつ」の従弟。(1562〜1616) 篠原 貞秀 調査不十分にて詳細不明。(?〜?) 高畠 直吉 荒子衆。「まつ」の養父。一説には実父。(?〜?) 高畠 吉光 調査不十分にて詳細不明。(?〜?) 高畠 定良 調査不十分にて詳細不明。(?〜?) 土方彦三郎 信治 斉藤氏の長良合戦に救援んに駆けつけ討死。稲生で戦死という説もある。(1536〜1556) 土方彦三郎 雄久 雄良とも。織田信雄に仕える。越中野々市、能登石崎など一〜二万石の領地を転々と。(1553〜1608) 奥村長右衛門尉 忠晴 もと近江国にて赤尾姓。駿河守。尾張国中島郡奥村郷に入り奥村姓を称する。後、荒子村へ転居。(?〜1549) 奥村助之進 宗親 助右衛門(是久)とも。一説に忠利の子。信長に仕える。(?〜1593) 奥村庄左衛門 利久 織田信孝に仕え、信孝死後閑居。(?〜1623) 奥村市左衛門 久信 秀吉に仕え舟奉行を勤める。(?〜1622) 奥村助右衛門 永福 前田利久から利家へ荒子城が引き渡される際、信長の強引な手配に反発。利久の朱印を得るまで渡さないと突っぱねた剛の人。この責を負って牢人するが後、復帰。前田家家老。能登末森城主となる。(1542〜1624) 滝川一益 信長に使え関東方面を押さえる重鎮にまで上り詰めるが本能寺の変後、転落。蟹江城を敗走。命は取り留めるが歴史の表舞台からは消えていく。(1525〜1586) 滝川益氏 (?〜?) ⇒ 滝川三郎兵衛 雄利 木造具康の子(一説に弟)。滝川一益の婿養子となる。(1543〜1610) ⇒ 佐久間信盛 織田家重臣。戦場を東奔西走するが信長から譴責を受け追放される。(?〜1581) 佐久間正勝 信栄とも。父信盛同様、追放される。後、秀吉の御咄衆となる。(1556〜1631) 加藤延隆 熱田商家西加藤家の祖。(?〜?) 加藤平四郎 ?調査不十分にて詳細不明。(?〜?) 木造 滝川雄利の父は木造具康とする説と木造俊茂とする説がある。(?〜?) 戸部新左衛門 山口教継かその一族かと思う。(?〜?) 赤尾 公綱 近江浅井家・浅井長政の祖 藤原氏三条家。駿河国赤尾に移住し赤尾姓。一時近江国浅井郡小谷に閑居。後、駿河赤尾に戻る。(?〜1471?) 赤尾 家綱 将軍足利義教に仕える。(1416〜1446) 赤尾 某 浅井氏祖という。 赤尾 宗利 調査不十分にて詳細不明。(?〜?) 赤尾 公宗 調査不十分にて詳細不明。(?〜?) 赤尾 忠宗 調査不十分にて詳細不明。(?〜?) 赤尾 輝宗 武蔵国川越にて討死。(?〜1505) 赤尾熊三郎 忠治 美作守。浅井長政に仕え小谷城にて戦死。赤尾美作守と言えば清綱だが。妻は斉藤龍興の娘。(?〜1570) 赤尾左衛門尉 忠利 市十郎、駿河守。駿河清水城主だと言う。桶狭間の戦にて戦死。 近江の赤尾氏、駿河の赤尾氏、尾張の奥村氏が兄弟だったという事になるが・・・信憑性については未確認。(?〜1560) 赤尾助左衛門 惟定 孫助、是貞。父忠利死後、祖父奥村忠晴に育てられる。前田氏に仕え柳瀬の戦にて戦死。(?〜1583)  

 
名前にカーソルを合せて下さい。
簡単な説明が表示されます。

(IE5.0にて動作確認)
 
カーソルにリンクマークが出た時、説明文の最後に⇒が出た名前はクリックすると「まいなー武将列伝」へ飛びます。
武将列伝このページ戻る場合は武将列伝ページ下の「戻る」ではなくブラウザの「戻る」でお戻りください。

 

前田 トップページへ戻ります