享禄四年(1531)  
 
 大永から享禄年間に織田三郎信秀(織田信長の祖父)は、織田下四郡守護代三奉行 のひとつ弾正忠家の家督を継ぐ。
 大永六年(1526)には信秀の父信定(織田信長の祖父)が文献等にみられるから それ以降。  また享禄五年(1532)には織田信秀が那古屋城を奪取する記述があるからそれ以前。  つまり1526〜32年の間の事であろう。
 
 尾張の守護は斯波氏であるが、実権は守護代の織田氏が握っていた。
 その守護代も上四郡を支配する伊勢守家と下四郡を支配する大和守に分かれ対立しあっていた。
 さらに美濃の土岐氏・三河の松平氏・駿河遠江の今川氏の影響も受け中小の国人はその勢力下で右往左往 していた状況である。
 事に三河と接する尾張南西部(鳴海・大高)や北西部(守山・品野)は織田・松平・今川の軍勢によって 争奪戦が繰り返されてきた。
 
 弾正忠家はその大和守に仕える奉行で因幡守・藤左衛門とあわせ清洲三奉行と呼ばれている。
 織田信定は津島の商業地帯の経済基盤を背景に力を蓄え三奉行の中でも一歩抜きんでていたようである。
 信秀の采配力はその父をも上回っていた。
 尾張の中央部に位置する那古屋城はこの当時今川氏の支配下にあり今川氏豊が城主の座についていた。
 氏豊は歌などを好み、国人らも招きしばしば歌合わせを催していた。
 ときには敵味方を越え織田方の武将らも招かれていたようで、この時も信秀は那古屋城に招かれていた。
 しかし俄に信秀は体調を崩し勝幡城へ帰ることもままならず那古屋城に泊めてもらうことにした。
 近習達もそれに従う。
 だが、これは信秀の策略であり、夜になると近習達と共に那古屋城の中から兵を挙げたのである。
 示し合わせていた日置城の織田丹波守も城外から攻め入る。
 城の中と外から攻められた氏豊は為す術もなく逃亡。
 わずかな手勢によって那古屋城は落ち、以降信秀の居城となる。
 





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