弘治 二年 (1556)  
 
 織田信秀の死ぬと、信秀の本来の主でありながら信秀の軍事力に対抗できず渋々従っていた尾張下四郡の 守護代織田信友(清洲城)は勢力奪回を謀り何かと信長攻撃を始める。
 織田信友がさらにその上に立つべき主君である尾張守護斯波義義統を討ち滅ぼしたのを機に、信長は 織田信友を討ち清洲城を手に入れる。
 自らは清洲城に移り、それまでの居城那古屋城は叔父織田信光に譲る。
 
 織田信秀の家督は信長が継ぐこととなるが、「おおうつけ」と評判高い信長に対して織田家支配体制の 存続を危ぶむ声も家臣団の中から挙がる。
 信長の従兄弟である織田信清(犬山城)との仲も疎遠になり、尾張北部は次第に信長の支配下を離れ 独立した体制をとるようになった。
 また、尾張西南部を統治していた山口教継(笠寺・星崎城)は織田家を見限り今川義元に寝返る。
 
 そんな中、信長の家中でも信長が当主である事を危惧する家臣たちが、信長の弟信勝(信行・末森城)を 担ぎ出し謀反を企てた。
 信長を守るべき立場にある筆頭家老であり信長の傅(守り役)でもあった林佐渡守秀貞が、その中心人物 であったことからも、信勝派の勢いが伺いしれる。
 だが、直前に信勝派の重臣である佐久間大学助重盛・信盛父子やそれまで信勝派に傾いていた佐々政次・ 孫助・成政兄弟は信長方へ帰忠。
 織田信光の死後、那古屋城の主は林秀貞となっていたが、信長はその那古屋城の北に位置する名塚に砦を 築き佐久間衆佐々衆を配し林秀貞を牽制する。
 おりしも大雨が続き清洲城と那古屋城の間を流れる庄内川が増水。
 これにより清洲からの援軍は来れぬと判断した信勝派は名塚砦を囲む。
 ところが信勝派の思惑を裏切り、信長は佐々孫助の案内で庄内川の浅瀬を探り渡河に成功、名塚砦の東、 稲生が原で両軍は激突する。
 



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