信 長 の 子 供 達 




 織田信正 
  おだ のぶまさ 
 生没年   1554〜1647 (一説に1558〜1647)   信長の庶長子? 
幼名・別名・官職 幼名=勝。帯刀。大隅守、主膳正。  生母  直子 
 
 信忠に兄が居ることはあまり知られていない。
 実際ほとんど文献にもでてこない。
 『系図纂要』・『好古類纂』等の系図にのみ掲載されているようだ。
 
 母・直子は原田(塙)直政の妹。
 元服後は古渡城主。
 伯父信広(信長の兄)の娘を室に迎える。
 信広と同じく大隅守を称していることもあり信広の家系を継承したのかもしれない。
 清洲会談でも後継者の候補にも上らなかったようであるから信長の子息というよりも家臣として 扱われていたのだろうか、信広の家系を嗣いだ分家とされていたのだろうか。
 原田直政が大阪本願寺攻めで失態を演じ討死したあと、原田(塙)一族は追放されてしまう。
 信正にまでもが責を負うとは考えられないが、地位の失墜はあったかもしれない。
 
 永禄元年(1558)に生まれたと言う説もありが、それならば信忠が名実ともに長男となる。
 
 子は、信衡・的寿の二子あり。
 詳細不明。 名から判断して的寿は僧籍か。
 天正十三年(1585)、悌髪して見性軒と号す。
 没年94歳であるから、父の倍近く生き伸びた。
 墓は京都見性寺。 原田一族某の墓も残る。
 
 
 
 信正の名前はほとんどの織田家系図には明記されていません。
 一部(『系図纂要』『好古類纂』とそれを基にした系図)のみに記載されているだけです。
 また信長の庶長子と書きましたが、もう一人系図に記載されない庶子とされる人物がいます。
 埴原乙殿(左京亮・雅楽助)といい「信長の隠し子」とも呼ばれる人物です。
 ひょっとしたらこちらが真の長子かもしれません。
 



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