信 長 の 子 供 達 




 織田(北畠)信雄 
 おだ(きたばたけ) のぶかつ 
 生没年   1558〜1630   信長の次男 
幼名・別名・官職 幼名=茶筅。三介、具豊、信意、常真。内大臣  生母 生駒家宗の娘(吉乃) 
 
 伊勢国司北畠具教の養子となり北畠を称したが、本能寺の変後、織田に復姓。
 
 清洲会議にて弟・信孝と後継者の地位を争う。
 兄信忠に次ぐ立場にありながらなぜ、後継争いをせねばならなかったか。
 
 それまでの経歴は、信忠ほど芳しくない。
 北畠家の養子となったのは永禄十二年(1569)。
 既に、北伊勢の有力氏族神戸氏、長野氏は信長の支配下におかれ、それぞれ信雄の弟・信孝、 叔父・信包が養子となっている。
 どうやら信長は伊勢一帯の支配に旧・国人豪族の体制をそのまま利用するため、織田一族の者を 継嗣として押し込む方法−−−いわゆるお家乗っ取り−−−をとったようだ。
 
 信雄が養子になったのもその一環。
 元亀二年(1571)舟江城にて元服、北畠具教の四女雪姫(千代御前)と婚礼。
 北畠具教の嗣子として北畠三介具豊と名乗る。
 もちろん「具」の字は具教・具房(具教の実子・九代国司)の名からとったのであろうが、 のち信長の「信」を有する「信雄」とあらためる。
 のち具教を暗殺し具房を幽閉するが自身は伊勢国司を相続せず、伊勢国司北畠家は事実上滅ぶ。
 (千代御前もこの時自害してしまう。)
 
 信長の命により伊勢長島・播磨を転戦。
 また独断で伊賀に出兵し惨敗、信長より叱責をうける。
 
  「今度伊賀堺において、越度取り候旨−−−−−実に其覚悟においては、親子の旧離許容すべからず候。」    『信長公記』   
 後年あらためて信長の命により信包とともに伊賀を攻め平定。  (天正伊賀の乱)
 
 本能寺の変後の明智攻めの際、安土城を焼いてしまう。
 
 こういった経歴のためか弟であり庶子であった信孝と後継を争うこととなる。
 が、羽柴秀吉の一計にて家督は信忠の嫡子三法師へ。
 信雄は後継人となり尾張が与えられ清洲城を居城とした。
 
 秀吉と結び信孝を攻め自刃させたのち家康と組んで小牧長久手の戦いを秀吉に挑むがすぐに講和。
 小牧長久手の戦いの際、秀吉の策略にかかり岡田重孝ら重臣を謀殺してしまう。
 講和後も秀吉の主筋であることにこだわり秀吉の命に背きつづけて改易、悌髪して常真と号す。
 のち赦免され秀吉の御伽集となった。
 さらに千代御前との間に生まれた嫡男秀雄に越前大野五万石をたまわる。
 
 豊臣氏滅亡後、幕府より大和(宇多)・上野(甘楽多胡碓氷)で五万石を与えられ、 死後信良と高長に分与。
 以降、その子孫は転封・減封はあるものの明治維新まで藩として続く。
 
 信雄の経歴をみると、失態も多く信長と比べると格段に武将としてのレベルが落ちてしまう。
 また身の振り方も、あっちへ付きこっちへ付きと節操がない。
 そうした面から信雄無能説を唱える人も少なくない。
 しかし、父の血の全てを子が受け継ぐ訳でもなく、信長と比べてしまうのがそもそも尺度から 違ってしまっているのであろう。
 本能寺の変後も、結局秀吉と家康の策略にはまり、あっちこっちふらふらしていただけのことで、 これも秀吉・家康に対抗できる武将自体が希有なだけで、ある意味仕方がないともいえよう。
 腐っても(失言)信長に遺児・実子である。
 政治利用価値も高いのだから策略・謀略が多いのはあたりまえ。
 中には政治利用すらされなかった信長の遺児もいるのだから、まだいい方であろう。
 信長の遺児たちの中で関ヶ原の戦い・大阪の役を生き抜き、さらに子孫を大名として残したのは、 この信雄だけである。
 策略・謀略の渦巻く乱世を渡りぬいただけでも、信長とは違ったまた別の才能があると見るべきか。
 
  末裔   
 秀雄・信良・高長ら。
 嫡男秀雄は豊臣秀吉より越前大野で五万石を与えられた。 (のち除封)
 三男信良は信雄の所領の一部、上野国で甘楽・多胡・碓氷併せて二万石を分与される。
 その子孫は出羽国村山へ転封、天童藩として明治に至る。 (最後の藩主信敏。維新後子爵家)
 五男高長も父の遺領から大和宇陀三万千二百石を継ぐ。
 子孫は減封転封となり丹波氷上で二万石柏原藩として明治に至る。 (最後の藩主信親。維新後子爵家)
 他に高家を含め旗本となった家あり。 (大和宇陀で二千七百石他)
 



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