信 長 の 子 供 達 




 冬姫 
 ふゆひめ 
 生没年   1561?〜1641   信長の次女? 
幼名・別名・官職  冬姫   生母  不明 
 
 蒲生氏郷に嫁ぐ。
 
 出生、幼少期のことは一切伝わらず。
 蒲生は近江国蒲生郡日野城を居城とし六角氏に仕えていた。
 信長が足利義昭を奉じて上洛する際、六角承禎が抗した為、信長はこれを攻撃する。
 その際、蒲生家当主賢秀はいちはやく信長の軍門に降った。
 この時、人質として差し出された賢秀の子鶴千代を信長はいたく気に入り、十四歳の鶴千代へ 十二歳になる自分の娘を嫁がせた。
 この鶴千代が後に会津百万石の太守(約92万石)、蒲生氏郷である。
 
 氏郷は信長死後は秀吉に仕え、やがて会津へ転封、その後も徐々に所領を加えていったのであるが 文禄四年(1595)わずか四十歳でこの世を去る。
 氏郷のあとは嗣子秀行が嗣ぐことになるのだが、若年の為・家臣を抑えられないなどの理由で 下野国宇都宮十二石へ減封されてしまう。
 
 このときのエピソードとしてこんな話がある。
 冬姫もご多分にもれず美貌の持ち主という。
 三十代半ばの未亡人に秀吉が懸想。
 しかし冬姫は貞節を守り尼となってしまった為、秀吉が逆恨みしてしまい秀行の減封を命じたという。
 実話かどうかはわからぬが、秀吉のこと、ありそうな話でもある。  ただ、宇都宮転封の年に秀吉は死んでいる。
 あるいは宇都宮転封の話かもしれない。
 
 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの後、再び会津へ六十万石へ戻される。
 しかし慶長十七年(1612)秀行も三十歳という若さで亡くなる。
 その子忠郷が後を嗣ぐが、彼も寛永四年(1627)に死んでしまう。
 未だ若く嗣子もいない為、その弟忠知が嗣ぐ事になったが伊予国松山二十万石へ減封。
 そして、その忠知がまでもが寛永十一年(1634)死去してしまう。
 こうして大名として栄えた蒲生家は断絶する。
 
 夫、子、そして孫までも年若くして死んでいった冬姫の胸中は如何なるものであろう。
 彼女自身は寛永十一年(1641)五月に没した。
 
 一般に次女とされているが生年には永禄元年(1558)説と永禄四年説(1561)とがある。
 当HPでは永禄四年説を採用しているが、一般的という以外にそちらを採用した根拠はありません。
 この二説は蒲生氏郷への入輿を伝える『氏郷記』『蒲生氏郷記』に信長の息女の年齢が十二歳、九歳と 記載されている為のようです。
 永禄元年を取るならばこちらが長女で、五徳が次女ということになります。
 
  末裔   
   一男一女。  秀行は氏郷の家督を嗣ぐが、しばらくして下野国宇都宮十二石へ減封。  のち会津へ復帰するが六十万石。  秀行のあとは嫡男・忠郷、次男・忠知があいついで相続。  忠知のとき伊予国松山二十万石へ減封、嗣子なくして改易。  娘は前田利政の室となる。  利政は前田利家の子であり、妹・秀が嫁いだ利長の弟でもある。  利政は能登二十一万石の領主であったが、関ヶ原の戦い後に領地没収された。  その後利政と冬姫の娘は京都嵯峨に隠棲したという。  



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