信 長 の 兄 弟 達 




 織田信勝(信行) 
  おだ のぶかつ(のぶゆき) 
 生没年   ?〜1558(1557?)   信長の弟 
幼名・別名・官職名 幼名=?。 勘十郎。 信行。 武蔵守  生母  土田御前 
 
 織田信秀の三男とされる。
 (一説に四男。
 これは二男として安房守が存在するという為であるが、 安房守は六男信時と同一人物であるという見解の方が強い。
)
 信秀の死後、信長を当主とすることに不満を持つ家臣団に推されて謀反を起こす。
  ( このあたりは、こちら(信長記外伝・第4巻)を 参照してください。
 
 信秀の葬儀の折り、信長が異形ないでたちで抹香を仏前に投げつけたのに対し、威儀を正した正装で作法 通りに行った。  参照(信長記外伝・第5巻)
 弟・秀孝が叔父の信次の家臣によって誤殺されたときは憤慨し信次の居城守山城へ攻め込んで城下の村を 焼き払った。  参照(信長記外伝・第1巻)
 その振る舞いは、戦国期の領主の息子として何一つ欠ける物はなかったに違いない。
 信長が織田家の当主では、斎藤氏や今川氏に対抗できぬとふんだのであろう。
 林秀貞(通勝)、柴田勝家らは信長を捨て信勝を選んだ。
 
 弘治二年(1556)、信勝派は兵を挙げる。
 信長直轄の領地篠木三郷を横領し、信長派の佐久間・佐々勢の立て籠もる名塚の砦に攻め込んだ。
 信長はこれを救援に駆けつけ両者は激突する。
 これが稲生ヶ原の戦いであり、信勝派は林秀貞の弟美作守らが討死し敗走。
 挙兵は失敗に終わった。
 しかし、信勝は赦される。
 秀貞や勝家ら、信勝を担ぎ上げた家臣らも赦されている。
 
 その後、信勝は再び挙兵を試みたという。
 だが今度は秀貞や勝家らは味方せず、信長派についた。
 信勝が先の失敗が勝家のふがいなさによるものとして、勝家を遠ざけたからである。
 信長派についた勝家の知らせによって兵を挙げる前に信長がこれを察知、先手を打つことにした。
 にわかに信長が病に倒れたという情報が信勝の元へ届けられる。
 実はこれは信長の仮病であるがそんなことは知る由もない。
 兄弟の間の事にて、先の遺恨は後回しにと勝家も見舞いに向かうことを進める。
 こうして信勝は清洲城へ見舞いに伺うのであるが、やはりこれは罠であった。
 北櫓天主次の間において殺害される。
 (河尻秀隆、青貝某が立ち会っている。
 彼らによって斬られたのか、自刃を強要されたのかは定かではない。)
 
 はたして信勝の真意は何処にあったのであろうか。
 野望か。 唆されたのか。 それとも信長による謀略か。
 今に残る文献からは信勝の心を読み取る事はむずかしい。
 個人的に、彼にたいして思うこともあるのだが、ここはまず紹介のみでまた別の機会に。
 
 嫡男は七兵衛信澄。(別項) 孫に信重ら。
 ほかに勝三郎信糺(子孫は阿波藩士)、新八郎信兼、女子あり。
 
 



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